最初の弟子たち
マルコ福音書 1:14-20
マルコ福音書のほぼ冒頭と言いましょうか、1章の14節から20節までです。
いよいよイエスキリストがこの世に伝導のために出かけられる、この世への登場が語られます。
ずいぶん構えた言い方ですけども「ときは満ち神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」
こういう第一声でイエス様はこの世の伝導の戦線に歩み始めてくださったということです。この言葉、私たちは何度も聴いてます、何度も読んでます、当たり前に読んでます。今日はここを中心にお話をすることになります。
「待ちにまった時は満ちた」。この「時」というのは一体どういう「とき」なんだろうかと思います。イエス様が伝導を始めた年、画期的な時であることは私たちにとってみればそうですが、神様が約束なさった特別な「時」なのです。私たちにとって、かけがいのない重大な「時」。
「私はキリスト教の信者じゃないからキリストの登場とは何の関わりもない」という言葉があちこちから聞こえてきそうです。でもやっぱり関係がある。今年は2022年ですけれども紀元0年はイエスキリストの誕生をもって決められました。ですから歴史はイエスキリストの誕生を持って紀元前 (before christ) 、そして紀元後 AD [Anno Domini](ラテン語で「主の年」)で区分けされている。
私たちの誕生の時もまさにその時があるからこそ明確になります。実質的にも神様は歴史の中にその足跡を記されたと思います。例えばイスラエルという国家がある。それだけで一つの奇跡的な出来事です。アッシリアやバビロニアなど、世界的にも有名な軍事国家、強大な国家の中で、散々やられながら生き残った。存在しているだけ奇跡的な気がします。
近代になっても差別に続く差別、迫害に続く迫害を経験しアウシュビッツのナチスドイツの暴虐にも耐えた。本当にその存在そのものが一つの奇跡だといわなければいけないかもしれません。私などは1990年前後のベルリンの壁が崩れる、ドイツが自由化する、東側の国家が次々と倒れていって自由を獲得していった1990年前後のことを思い起こす時に「神が歴史を動かしているのではないかというようなことを、当時のソ連の指導者さえも言っていた」ということを聞いて、「なるほどな」と思ったものです。歴史はただ動いているのではない、ただ流れているのではなく、神の時はあるのではないかということを実感したぐらいです。
15節、主イエスは叫びました「時は満ち神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」
なんでもない言葉だというふうに私たちは受け止めますが、そんなことはないようであります。主イエスはその言葉を持って、この伝導を始められた。 主イエスによれば時は満ちたのです。神様が定められ、約束なさった「時」が来た。歴史の大変革の時には変化の気配を感じ取れるかもしれない。
1990年の経験の中で私も感じたことですが、イエス様が伝導を始めた時も似たようなことを言った人がいます。バプテスマのヨハネです。バプテスマのヨハネは「悔い改めなさい」と言った。同時に「だからふさわしい実を結べ」と言った。イエス・キリストは「時は満ち神の国は近づいた」とおっしゃった。
この「神の国は近づいた」という言葉は“神の国が来た”というふうに了解すべきだと聖書学者は言います。私たちもそうかもしれない。神の国が来た。「だから悔い改めて福音を信じなさい」
「時は満ち神の国は近づいた」「悔い改めて福音を信じなさい」
どちらに重みがあるかというと、後者です。バプテスマのヨハネの「悔い改めなさい」は同じ言葉です。でも「ふさわしい実を結べ」のほうに重点があるような気がします。
ルカの3章の7節8節のところで「マムシのこらよ」と呼びかけています。「マムシの子らよ。差し迫った神の怒りを免れると誰が教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ」と言っています。11節には「下着を2枚持っているものは1枚も持っていないものに分けてやれ」と言っています。こういう切実な求めも一般の民衆はあった。贅沢をしている上流階級とは反対に人々はそんな生活を強いられていた。そうした中で「分けてやれ、持っているものがあれば分けてやれ」ということをバプテスマのヨハネは主張していった。まさにそれが神の救いを手に入れる手段だからです。
徴税人たちには「規定以上には取り立てるな。誰からも金を揺すり撮ったりだまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」
当たり前のことですが、当たり前のことが当たり前ではなくなる社会がそこにはあった。そこで主イエスもバプテスマのヨハネも同じように「悔い改めて良き行いをしなさいと」言いました。ヨハネは神の裁きを避けるためには良き行いをしなければならない(「神の裁きを免れるために悔い改めの実を結べ」)と教え、命令したのです。イエス・キリストはこの時に新しい形の神の支配を天からもたらしてくださったと思います。
この神の国というのは神の支配と訳されるそうです。この神の支配はバプテスマのヨハネの教えとだいぶ違う。バプテスマのヨハネは神の裁きの時が来たというふうに信じた。けれど主イエスは「悔い改めて福音を信じなさい」と言いました。そっちのほうに主眼があります。ヨハネは個々の悪事から手を洗えといったのです。
大した違いはないと見るでしょうか。人間とは一旦悪事が身につくと依存症的に身につけてしまい、体の中に取り込んでしまって、その悪事の虜になってしまうということは、よくあることではないでしょうか。罪の特徴というのは繰り返すことです。そういう人間が神様を信じる時に、あるがままを引き受けて主イエスが十字架で精算してくださる。
ヨハネ福音書の3章の16節には「神はそのひとり子をお与えになったほどにこの世を愛された。ひとり子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである。」
あるがままの罪人の存在を、そのまま引き受けてイエス様はその罪を赦してくださった。そういう方であることが求められる。そういう存在である方が人間には必要である。
お年寄りが歳をとってあちこちの施設に厄介になるというケースがいっぱいあります。そういう中で一つの大きな問題はお酒ではないかと思います。酒の虜になるということは、ひとつの誘惑かなと思います。お酒ひとつとってもそういう習慣から抜けきれない人がどれほど多くいるだろうかと思います。そうした中でイエスキリストが「私の元に来なさい」とおっしゃった。あるがままでいいから私の元に来なさいというふうにおっしゃった。そういう方がいらっしゃるのと、そうでないのとでは大きな大きな違いが多く起こってくるということだと思います。
話はそこで止まりません。こうして悔い改めて福音を信じる人がどういう生活を志すのか。主イエスはこの時に何のためにガリラヤ湖の周辺を歩いていたのでしょうか。これから展開する出来事と私がお話ししてきたことは密接な関係があります。シモン(ペテロ)とアンデレ、ヤコブとヨハネの4人の漁師。主イエスのもっとも間近に仕えた漁師たちが弟子として召されるのです。シモンとアンデレの兄弟たちに漁をしている際中に声をかけられた。漁をしている最中に声をかけたのです。まさに網を打っている最中にイエス様はこの2人に声をかけた。「私についてきなさい。人間をとる漁師にしよう。」とおっしゃった。すごい違和感がする言葉です。
もう一組のゼベダイの子ヤコブとヨハネは船の中で網の手入れをしていた時にイエス様に声を掛けられて弟子となった。この人々はガリラヤの漁師でした。外見も内面もまったく漁師そのものです。イエスのお弟子に・・・外見はどうでもいいのですけれども、でもそれらしい外見とは到底思えない人たちです。若くもなかっただろう。宗教の世界に馴染んできた人たちでもない人々です。心の準備をする間もない出来事です。
ペテロなどは弟子になって神殿での宣教で捉えられた時でさえ、官憲から尋問を受ける時に無学のただ人だと評された。弟子になってさえも「無学のただ人」そのものです。でもペテロには、無学のただ人が主に従っていく上の不十分さというものはなかった。主イエスは私たちに見どころがあるから声をかけたのではない。漁師や徴税人は、主イエスによる新しい世界では全く問題ではなかった。主イエスはなぜこの4人と、これに続く人々(徴税人、一般的には悪者と見られる人々)を弟子として引き受けようとしたのか。
教会、あるいは他宗教でもそうかもしれませんけれども、関心を示してくれる人々から弟子候補が生まれてくるのが通例だというように思いませんか? 熱心に礼拝に来る人々から洗礼を受け、訓練を受けて、牧師なり神父候補者が生まれていくというのが通例だと思います。何の関係もない人々に向かって、仕事を捨て肉親を捨て、然るべくしてイエスに従いなさいと勧めても、応じる人がいるわけなどないと思います。しかしイエス様に従うというのはそういう従い方とは違うのだと思います。
マルコ福音書の8章の34節を見ていただきたいと思います。「それから群衆を弟子たちとともに呼び寄せて言われた『わたしの後に従いたいものは自分を捨て自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者はそれを失うが私のためまた福音のために命を失う者はそれを救うのである。』」
初めからイエス様は単なるフォロワーを集めたわけじゃないというところに、今回改めて「あそうなのか」イエス様は最初から弟子を求めている。イエス様の思いは“弟子になってほしい”ということだと思いました。考えはそれぞれに違うと思いますけれども、主が私たちに求めることはフォロワーではなくて弟子なんです。
そしてその弟子になるためには人間的な条件というのは無関係だ。何歳だとか学問があるとかないとか、そうした人間的なことは全く問題ではない。ということに改めて気がつかされました。「弟子」ということが突きつけられたような気がしました。
お祈り
神様。あなたの前に、あなたの大きな計画の中で私たちを知り、私たちを導いて人生を今まで導いて来てくださいました。
あなたは、あなたの想いを直接私たちにぶつけるようなことはなさいません。しかし従うものに弟子であってほしいという願いをあなたは持っていらっしゃることであります。どうぞあなたの前に、私たちが良き弟子としての生涯を、私たちの人生が終わるまでに作り上げていくことができるように助けを与えてください。あなたの前に一歩一歩、それは地味な道であることかもしれませんけれども、どうぞあなたの前にそうして歩んで行くことができますように助けを与えてください。あなたのまなざしを常に注いでいてくださいますように、イエスキリストのお名前によってお祈りを致します。