キリストの弟子として
ルカ福音書6章12-19節
ある安息日の会堂の中で主イエスは、右手の萎えた人をいやされました。主イエスにとって、安息日こそ命を救い、善を行う事はふさわしいことだからでした。ところがそれは安息日の規定に真っ向から違反することでした。規定が間違っているなら修正すればよい。でも修正しませんでした。そうした規定をつくったイスラエルを代表する律法学者やファリサイ派の人々は、怒り狂って主イエスを何とかしようと話し合いを始めました。神の民イスラエルを代表する彼らが怒り狂ったのは、彼らが造り上げた社会に主イエスは全く適合しないし、主イエスにはそうするつもりもないことが分かったからです。けれど神の民イスラエルには神のみこころを全地に広める使命があります。そのために彼らは選ばれ鍛えられてきたのです。しかし他ならぬ彼らが、さまざまな細かい規定をつくり、病気や障害はその規定に違反したことへの神の罰であると断定し、規定を守れない徴税人や羊飼いらは汚れた罪人であると決めつけたのです。それがイスラエルの代表といわれる律法学者やファリサイ派の姿でした。この人々には全く期待できないことを知って、主イエスには深く悲しまれたと思われます。
主イエスは山に登られました。神に祈るためです1。12人の使徒候補を集めての主イエスの祈りは朝まで続きました。その中には主イエスが「岩」(ペトロ)と名付けたシモンや、シモンの兄弟アンデレをはじめ、様々な人がいました。漁師、徴税人。しかし、ローマ人に対してテロを実行する熱心党に属する人、律法学者やファリサイ派の人は一人もいませんでした。律法の規定を知り尽くしてそれを守る人が義人と言うなら、その人とは正反対の人ばかりでした。
教会には様々な思想の人々がいるのが当然です。けれど教会員は全て、イエスをキリストと信じて告白する人です。当然その信仰によって洗礼を受けた人です。その信仰において教会は一つです。使徒とされた12人は主イエスに出会い悔い改めて主イエスの後に従ってきた人々です。
山頂で主イエスから新しい使徒職に任じられた弟子たちでしたが、彼らを待っていたのはおびただしい民衆。しかもユダヤ全土をはみ出て、シリヤ地方のティルスやシドンの海岸地方・・・から多くの人々が集まってきた。何のために人々は国を超えて主イエスのもとに詰めかけたのでしょう。今から2000年前のパレスチナには私たちにとっての医学もお医者様もいなかった。病気と言えば祈祷師まがいの民間治療師に委ねる以外には方法がなかった。2000千年前でも、ガンもあれば重い皮膚病もあり、人々は重い病気に苦しんでいました。
人々はなんとかして主イエスに触ろうとした。そこにあった人々の思いは信仰的な求めではなかったのではないか。主イエスは我々のために洗礼まで受けられる。それ以上に十字架さえ拒まない。わたしたちの傍に主イエスがわざわざおいでくださる。人々が国中から、否、 国境を超えて殺到したのは主イエスが伝えようとした心の危機、魂の危機感が伝わったからである。今私たちは神から離れつつあるのではないか? 時にわたしたちの体には病気という形でそれが現れる。
2023年11月12日 礼拝メッセージより
- 主イエスは、しばしば祈られました。特に危機的な状況を迎えては祈られました。主イエスが最初に祈られたのは洗礼者ヨハネから洗礼を受けた時です。主イエスの受洗は、主が人間の罪を背負い、罪に対する神の裁きを受ける決断の時。主イエスさまのこの決断と神さまの祝福抜きには、新しいイスラエルは生まれようがなかったのです。この受洗の中に新しいイスラエルの起点があります。 ↩︎