実り多い生

マタイによる福音書 28:16-20

10年ちょっと前に、見事な信仰生活を歩まれていた(仮にAさんといっておきますが)ある87歳の信仰者を天に送りました。1920年生まれ、87歳の生涯を終えられたのでした。沖縄ご出身で青春時代まっただ中を、戦争に奪われた世代です。現にご家族を何人か失ったと聞いています。また戦後は米軍による占領の中で、それがどんなに不当で苦しい生活であったかをうかがいました。大変読書家の方で文才にも恵まれておられました。私は直接ご本人から新聞の投稿に採用されたことがあったと伺いましたが、お嬢さんから雑誌「文芸春秋」にも認められて、海外旅行つきの懸賞論文に選ばれたことがあるとの事でした。

2003年の6月に由木教会で洗礼を受けられましたが、教会には本当に喜んでお出でくださっていました。信仰とともにぐんぐんとお元気になって行ったような気がします。前年までは冬は寒いので老人ホームでショートステイをしていたと聞きましたが、教会生活が始まってからは、ほぼ毎日のように教会にお祈りに来ました。2時間ほどお祈りなさるのです。教会に集い始めて間もない人々のために、助けの必要な人々のために、障碍を持ってご苦労している人々のため、命を削るようにしてお祈りなさっていました。

教会に来初めのころは補聴器なしでは礼拝説教は聞き取れませんでした。しかし補聴器の具合が良くなく、時折キーンと言う異音がAさんの補聴器から聞こえたりしたものです。ところがある日、補聴器をはずしたのです。するとまったく支障なく聴こえるようになっていたのです。まさに奇跡的に聴力が回復しました。神がどんなに現実的な存在なのかAさんは身をもって証明してくださいました。教会とは天と地が触れ合うところなのです。ですからそこで祈られたことを神は聞いてくださる、そして神の業が時として現実になるのです。

ただAさんは駆け抜けるように天に移されたような思いがしています。故郷の奄美大島にも一緒に行きたかったし、お別れする前に他のお話も聞いておきたかったと思うばかりです。

先ほど開いた聖書の箇所も一つも別れの場面です。主イエスと弟子たちは地上での別離を遂げようとしています。主イエスの弟子たちは、12人のはずですが、弟子の中で会計を務めていたイスカリオテのユダが、主イエスを裏切り、自殺してしまったのです。今は11人です。彼らは復活した主に導かれ40日の間、主に導かれました。そして最後になって「あなたがたは行って(口語訳では<全世界に出て行って>)すべての民をわたしの弟子にしなさい。」という命令を彼らに与えたのでした。

弟子たちの中で、手ひどい失敗と躓きを経験したのはユダひとりではありませんでした。弟子たちの中で最長老であるペトロは「あなたもあのガリラヤ人の仲間では? と問われ3回繰り返して「いいえ、私はイエスという人など無関係」と言い切ってしまっていました。そして突然来た師である主イエスと最終の別れの場で、ここに来てもなお、17節、「疑うものがいた。」とかかれてあるくらいです。そういう11人に命じられたことはとても背負いきれないほどの重荷ではなかったかと思います。彼らはその重荷のための押しつぶされんばかりの恐怖すら抱いていたのではないかと思います。

失敗して欠員のある11人。信仰的にはもちろん、精神的にもナーバスだったと思います。こうして全世界に出て行ってといわれても、誰が見ても出来るはずがないとしか思えないのです。でも、そう命じた。そしてすぐに続いて「私は世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる。」と付け加えられました。

信仰について考えるとき、わたしたちはそこに信仰者らしい行動、生き方をしなければならないと思って、これでいいのか、そうでない自分に無力感を感じ、気が重くなることがあります。確かに信仰は単に精神的な気休めだけではないのですから、何らかの行動や結果をもたらすはずです。そうでなければ、むなしい言葉遊びの世界になっていくでしょう。到底実現不可能と思えるこの主イエスの命令ですが、結果としてこれは実現したのです。それは弟子達のがんばりや努力の結果ではなく、神が弟子達を励まして、結果を見せてくださったのです。

<わたしが共にいてあげよう>
神が共にいてくださることは、そのこと事態が特別な状況なのです。
<私は世の終わりまで、あなた方と共にいる。>
世も末だと思えるような出来事が、次から次に起こっているようにも思えます。確かにこれは異常だと思えるような社会にわたしたちは生きています。しかし同時に、人間の歴史の中で、終末思想、末法思想というものは、中世の時代から、いつの時代にも存在したでしょう。歴史は進化しているようで、人間はあまり進歩があるとはいえないかもしれない。年年歳歳、季節がめぐりきて、同じような歩みが繰り返されます。

でも、決して繰り返されないものもあります。われわれ自身の生活です。わたしたちの生活はいつも初体験です。昨日の私と、今日の私は違います。昨年の由木教会と、今年の由木教会は別のものかもしれない。同じ時間に目覚め、同じ時間に床についても、わたしたちは二度と同じ生活を繰り返すことはありません。わたしたちはそうして労苦しながら、何十年かの人生を全うします。全うできるようなものかは別として、人生を生きます。ある時間の経過を終えれば、この世から消えていきます。しかし、われわれはそれで消えてなくなるのではないのだと思います。ただ消え去るのみの人生なら、最初から生きて歩む気力や、責任も生まれますまい。私は人生を生きていくということは、私とかかわった人々の心に、お互いに刻み付け、心の中にわたしという像を映し出す過程のような気がしています。わたしが死ぬ、誰かが人生を終える、私はいなくなりますが、私という像は誰かの心に投影されているのです。死んでからでさえも残る像を結ぶとしたら、できればよき像を結んで、人生を終えたいものです。

わたしたちは自分の家族、自分の職場、交友関係の中で、何もかも終わったら、それで消えてしまう、何も残らないとしたら、したい放題、やりたい放題、無責任のかぎりを尽くすような人生を送るかもしれない。でもなんらか、自分の人生は終わってしまっても、自分を知る人のうちに自分は生きているかもしれないと思えば、そこに、責任をもって人生を生きる必要が生まれてきます。わたしたち人間と、動物を区切るものがあるとすれば、永遠を考えることができるか否かが、人間らしい生き方なのか、動物的なものになるのかの違いのような気がします。

主イエスは天に帰る。弟子たちは地上に残される。弟子達にはどう見ても最悪のシチュエイション。神様はこれをよしとご判断なさって、終わりを与えてくださる。わたしたちの生涯は、神が完結してくださる。人はたくさんのやり残しの中で、生涯を終わるような気がしますが、神様は、すでに完成したと考えてくださっているのかもしれません。ですから人の生涯の終わりという、一見悲劇に見える出来事も、神がそれをよしとして受け止めてくださるといえるのです。

主イエスは、<見よ、私は世の終わりまであなた方と共にいる。>
世の終わりとは、神が、わたしの生活の中で始められたことが完成するときです。それは私自身の目には少しも完成ではないかもしれないけれど、神の目からは完成のときです。そういう神の手を信頼して、神に委ねる、そう確信し、望んで、神にゆだねるのです。

神が共にいてくださる。そういう宣言です。神が宣言するのです。

弟子達には何もありませんでした。でも、これだけを信じた。神の世界が人間の世界と触れ合うのです。信じないわけには行かなかった。そこから希望が生まれていったのです。でも、目の前には復活した主イエスがいたのです。過去が同であったとしても、将来がどう運ばれていくか分かりませんが、ともかく、今日ここに共にいてくださるキリストを信じたのです。弟子たちは力ない、ダメなものでしたが、勇気をもって、これを受け止めた。

非力な11人でした。しかし数十年後には、ローマ帝国全体に教会が生まれていたのです。それは弟子達の能力ややる気の結果ではなく、やはり共にいてくださったキリストの故としか言いようがないのです。わたしたちの生涯も、全面的にキリストを見上げて生きる道と、そうでない生き方の二つがあります。

Aさんは、私たちの教会ではわずか数年間を過ごしたに過ぎません。ですが、信ずることの深い意味合いを十分に示してくださいました。確かに数年間でしたが長い長い祈りを毎日のように祈られたのです。その祈りは神に届いたでしょう。祈ったことが神に届いたなら祈ったことは無駄にはならない。いつかどこかでそれは形あるものに姿を現すのです。深い感謝を神とAさんに捧げたいと思います。

(2020年11月01日 礼拝メッセージ)

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