なぜこのように苦しいのですか?
なぜ、このような苦しみがあるのだろうか? 日々を生きる中での苦しさに、思わず嘆きが呟きが口に出る。
大地震や津波などの自然災害から原発事故や戦争などの人為災害に至るまでの多くの苦痛や犠牲は、どうして起きるのだろうか? シリアやパレスチナあるいはアフガニスタンなどでの人々の目を背け耳を塞ぎたくなる苦痛は、なぜなくならないのだろうか? 神さまが居るのなら、どうしてこのような苦しみを放置されているのですか?
アメリカ・ミネアポリスで8分46秒間「息ができない」と訴えた続けた末に命を奪われたアフリカ系アメリカ人の男性、名古屋入国管理所において40日間も適切な水分や栄養が与えられずに衰弱死に至ったスリランカ人の女性。
「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか?」(マルコ15:34)
日々の生活の苦しさから人類全体の苦痛に至るまで、その理由を問い、その問いに何とか答えようとする試みが古来からなされてきた。こうした議論は、キリスト教では「神義論(しんぎろん)」として知られている。
万能にして善なる神が存在するのなら、なぜこのような苦しみが存在するのか?
旧約聖書ヨブ記以来の問いかけである。
命題1: 神は、完全に善である。⇒神の善性
命題2: 神は、全能である。⇒神の全能性
命題3: それにもかかわらず、この世には悪が存在し、そのことによる苦しみがある。
命題1と命題2が真であるならば、命題3が導かれるはずがない。しかし現実は明らかに命題3を示している。
それならば、命題1と命題2に何らかの問題があるのではないか?
古代哲学者アウグスティヌスは、神は人間に悪を行なう自由をも与えたのだ、だからこの世に悪が存在していても、それでも神は善であり全能であり得ると考えた。こうした考えに対しては、それではなぜ神は人間に悪をなすことのない道徳を与えないのか、そもそも大地震のような自然災害についてはどうするのかと反論された。
古代の教父エイレナイオスは、悪にも教育的な機能があり、人間を成長させるために必要な試練なのだ、とした。言わば、人類全体を救うための救済論としての必要悪という説である。命題3の「それにもかかわらず」という逆説の接続詞を、「だからこそ」という順接の接続詞に置き換える説明である。
我が身に降りかかる悪に対して古来からなされてきた「因果応報」という説明に対する反転、「神の業がこの人に現れるため」(ヨハネ9:1)である。
しかし近代になってこうした古代以来の説明についても、様々な疑問が呈されるようになった。個別の悪に対してはともかく、アウシュビッツのような巨大な道徳悪が発生するに及んで、もはや神の善性・神の全能性・悪の事実性という枠組み自体を維持することが困難となったのである。
そのために、神は善であるが、全能ではない、すなわち神も人間同様に、悪に苦しんでいるのだとする新たな神義論があらわれた。この世に存在する悪や不幸に神もまた苦しんでおり、それに抵抗しているのだ。イエスが荒れ野で試みに会われたサタンの誘惑(ルカ4:1)のように。
「苦しむ」という経験には、どのような意味があるのだろうか? 一人で苦しむということもあるだろう。しかし多くの場合は、苦しみを何とか周りの人に伝えて助けを求めて、あるいは周りの人が察知して隣人の苦しみを知り共に苦しむ。それでも、人はなぜ苦しまなければならないのだろうか? ある人は、苦しむこともその人のある種の能力である、と言った。「苦しみ」があるからこそ、「苦しみ」がないことの大切さを知ることができるのではないか。人が生きる限り、苦しみを避けることはできない。生きることは、すなわち苦しみを経験することでもある。
しかし本当に苦しい時には、他者に助けを求めることもできずに、ただうめくことしかできないのではないか? 耐えられない苦しみ。なぜ私はこのように苦しいのか、という叫びは、苦しみの原因を尋ねているのではなく、実は自分の存在を肯定して欲しいという切実な求めがあるのではないだろうか。
こうした答えのない問いを終わらせるには、自分の苦しみをただ無くして一刻も早く楽になりたいという願望から、苦しみを「引き受ける」という自己転回が必要なのではないだろうか。その時に初めて乾ききった心に「決して乾かない」「永遠の命に至る水が湧き出る」(ヨハネ4:14)ことになる。
五十嵐 彰 (2021年11月14日 週報より)