神の約束を頼んで

出エジプト記 6:2-13

イスラエルの歴史で最も大きな事件は紀元前13世紀に起った出エジプトです。それはイスラエルの人々にとっても誇りに満ちた、神の恵みの事実として記憶されていることでしょう。とはいえその当時エジプトから実際に救い出された人々は、その出来事を必ずしも喜んではいなかった。

イスラエル人がどうしてエジプトに住むようになったかということは、旧約聖書では有名なヨセフ物語(創世記37-50章)に詳しく記されています。ヨセフ物語は改めて読んでみると人によって感想は或るのでしょうが、ヨセフとして登場した心優しい、しかも強烈なカリスマに生きた存在がいたと私は思っています。ヘブライ人は戦争に負けたためではなく、貧しさから奴隷商人に売られたわけでもなく、その先祖ヨセフがエジプトを飢饉から救った恩人として迎えられたからでした。ヨセフはエジプトでファラオに次ぐ、宰相の地位を与えられ、その家族も厚く厚遇されました。それは紀元前1900年から2000年くらいのことであったようです。しかしどうやら王朝が変わったらしいのです。新しい王はヨセフのことは全く知らなかった。知ろうともしなかった。王が変わり、王朝も代わると、時折、意識的に歴史というものは書き換えられたり、忘れ去られたりするものです。エジプト人にとってイスラエル人は異質な、邪魔な外国人になっていった。

そこで王はヘブライ人を奴隷、労働力として使うことを考え出したのです。ヘブライ人たちはそれに逆らう力がありませんでした。彼らは次第に、奴隷として生まれ奴隷として生涯を送り、奴隷として死んでいった。考え方も、意識も、奴隷として順応せざるを得なかった。彼らの生活は貧しく、差別されていた。

ヘブライという言葉はいつの間にか奴隷・労務者という意味で使われるようになりました。彼らは何十年も奴隷として生活してゆくことに慣れきっていました。ところがある日、モーセを通して、神がヘブライの人々をご自分の民として選んだということを知ります。

同様に私たちもある日、突然神に選ばれるのです。ヘブライ人が、特別他の民族より優秀であったから選ばれた、と主張する人々は多くいる。でも聖書にはそう書いてありません。特別信仰深かったから、でもありません。同様に私たちもただの人間です。自己中心的で何のとりえもない人間です。なのに神は私たちをお選びになりました。

神はかつて彼らの先祖たちとの契約を思い出したといわれます(6:2-5)。彼らの先祖たちが、かつて神に導かれて行って住んでいたカナンの地、いわゆる乳と蜜の流れる地を、もう一度彼らに与えると約束されたのです。そこには、今と比べ物にならない豊かな生活がある。比べ物にならない豊かな生活、自由がある。でも乳と蜜にあふれた理想の地といっても、それは物質的な意味合いではないことは明らかです。ひとは心豊かでこそ、心満ち足りるのです。 かつてアブラハム一家もカナンで飢饉にあってエジプトに避難し、アブラハムは妻のサラをファラオのハーレムに入れようとしたことがありました。ヤコブがエジプトに行ったのも根本的にはカナンが飢饉に直面したからでした。<乳と蜜の流れるところ>とは、彼らを守られる神が、進んで神となってくださると約束されるところです。ヘブライ人にとって、それが一番幸せなことだから、その地を与え、神がヘブライ人を選民―選びの民として決める。それはヘブライ人の願いで行われることではなく、全く神が定めとして進んで実現してくださる。

神は3章でモーセを選び、この計画をスタートします。しかしヘブライ人たちはそのことをを少しも喜ばないのです。モーセの言葉ですが5章22-23「あなたはご自分の民を全く救い出そうとはされません。」

出エジプト記を読むと神の裁きが繰り返されます。ナイル川を血の川にしたり、エジプトをカエルで埋めつくしたり、疫病を蔓延させたり童話でも読むかのようです。つまり神はそうと決めたことはどんなことでも愛する民のためには実行する、ということだと思います。

神はイスラエルを何のために選んだのでしょうか。神はヘブライ人に何をさせようとしていたのでしょうか。神様はエジプト人に一方的に憎悪をぶつけようとしているのでもなさそうなのです。7:16、7:25を見るとモーセにファラオのところに行ってエジプトからヘブライ人を出させるように交渉するとき「わたしの民を去らせて、わたしに仕えさせる」と言わせています。神がヘブライ人をエジプトから救出する目的は単に脱出だけではなかった。<彼らに神を礼拝させるため>だったのです。決してヘブライ人を楽にさせるためとか、世界の支配者になって軍事大国化させるためではなかった。ヘブライ人もそのことに気づいてはいなかった。

確かに神を礼拝させるためならエジプトを出なくてもできるだろう。ファラオもヘブライ人には優しくしてもいいと考えていたかもしれない。でもイスラエルにとって荒野に出ることは必要だった。ヘブライ人はエジプトから連れ出されたときまだ神をよく知っていなかった。彼らはエジプトを出て荒野の生活の中で礼拝を捧げる必要があった。
「わたしは、あなたたちをわたしの民とし、わたしはあなたたちの神となる。」(7節)
まさに礼拝においてこそ私たちは神の民とされる。そして神自ら、あなたの神となると言われるのです。わたしがあなたたちの神・主となる。神が主であるということは、神に主権を委ねるということです。私が完全に神の支配に身を委ねますということです。

ヘブライ人たちはそうした意味で神に選ばれましたが、それほど重大な関わりに生きるのだということを理解していませんでした。だから出エジプトの旅路の中で不平と不満を言い続けたのです。あろうことに「エジプトの生活のほうがよかった。」(16:2)(民数記11:4-6)

信仰生活を歩んでゆく中で礼拝を守っていても面白くない。神を信じることに、もっと自分の生活を豊かにするものがあるはずだ。洗礼を受ける前のほうが自由があったと言う人に似ています。

ただ神は、神の愛する者を礼拝にお招きになりたいのです。神ご自身がどれほど私たちを愛しているかを伝えたい。それには礼拝が必要なのです。神が人間を創られた目的がここにあります。

出エジプトをしたヘブライの人々も荒野の40年間、つぶやき通したのです。神が約束した乳と蜜の流れる土地も彼らにとってあまり魅力ある所ではなかったのだろうか。明らかな理由は飢え乾きに苦しむ荒野の生活と反抗する民との戦いが億劫だった。そんな苦労をしてまでその地に行くよりエジプトで肉ナベの側にいたほうがよかった。彼らにとってはカナンの地に行くことはもはや魅力的ではなかった。彼らは自分を奴隷として縛っているこの世の生活から離れることはできなかった。主イエスは自らを渡してさえ「あなたの神になりたい」とおっしゃってくださるのです。

(2021年11月14日 礼拝メッセージ)

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