いと小さきものに

仕事や立場も違いますから、一様ではないにしても、一週間のうちに私たちはどれほど多くの人々と出会うことでしょう。そしてたぶん相手の人々は交わした会話、話の内容からわれわれを判断し、評価し、値踏みをします。それは外見・外面による判断ですから、到底正しいとは言いがたいものです。

聖書の中に、その人の人生を計る基準のようにいわれる言葉があります。「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座につく。そして、すべての国民がその前に集められるとき、羊飼いが羊とヤギを分けるように彼らをより分け、羊を右に、ヤギを左に置く。」(マタイ25章)

この世において人の目に隠されていること、曖昧なままにされていることは少なくありません。最近の汚染米流通のからくりに見られるように、散々悪事を重ねておきながらむしろ脚光を浴び喝采を受ける人間がいる一方で、真実と正直にいきながらも、世間的には全く無名な数え切れない人々もいます。
けれど神の目はごまかすことが出来ません。人々を右と左に分けるのです。そこではこの世に流通する基準-業績、外見、偏差値、財産―は何の意味も持ちません。神の基準は世にあって<いと小さきものの一人>を大切にしたかどうかが問われるのです。
<いと小さき人の訪れ>は<イエスの訪れ>でもあるのです。「キリストは、飢える人、孤独な人、心痛む人の姿に身をやつしてこられる。」とマザーテレサが語った事があります。

人を助け、愛することは、主イエスを愛することです。イエスこそ最も小さなもののために十字架に上り、自ら、最も弱いもの、小さきものになられました。それまでして、自らを投げ出し身を挺して救おうとされた相手は、じつはわたしであり、あなたのためでした。
人間とは不思議な存在です。どんなに世間的に成功を収め、財をかき集めても、その心は不思議に満たされないのです。でも、主イエスのため小さきものへの小さき業は、それをする人の心を満たすのです。受けるものは深い感謝に満たされ、与える側は大きな神の祝福があります。
そこに不毛に見えた人生が生き生きとするひとつの方向があります。

(2008年10月05日 週報より)

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