わたしたちは主のもの

わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。

ローマの信徒への手紙14章8節

 このパウロの言葉は、私の一生涯を貫いて、救いの拠り所となる御言葉ではないかと思っています。究極の慰め、確かな拠り所は「生きるにも死ぬにも」という私の生涯全体が、主イエス・キリストのものにされていることです。
 このパウロの言葉と出会ったとき、私は道元の「正法眼蔵」の言葉が思い起こされました。
「生死の中に仏あれば生死なし」
「この生死はすなわち仏の御いのちなり」
 この生死する「いのち」が、そのまま「仏の御いのち」だというのです。仏教では生と死は分かれていないといいます。生はどの段階においても、いつでも死を含んでいます。生というものは、死を内蔵している生死一如の「いのち」なのです。しかし、死を嫌い排除しようとして、生に執着してしまうのが現実の人間の姿です。
 もともと私たちが「いのち」を所有していたのではありません。私たちに与えられた「いのち」の上に、神の御業が現れるのではないでしょうか。キリスト者は主のものとなって、生死のすべてを主に委ね、生死する「いのち」をありのままに生きていくのです。

「裏を見せ 表を見せて 散る紅葉」
 良寛が大好きだった句です。紅葉は無心に己を無にして、秋風にすべてを委ねて散っていきます。表だけを見せたい。醜い裏は見せたくないという我執や見栄などがあっても、そのままの姿で無心に秋風に委ねていく姿に心ひかれます。
 これまで私たちは、人生で大切なものを失ってきました。悔やんでも取り返しのつかないこと、恥ずかしくて人に語れないこと、また、一人で苦しみを抱えていたこともあったかもしれません。人生の荒波で大切なものを失って、色あせ挫折した自分になっても、そんな自分を受け入れることができるようになることが、人生でもっとも大切なことだと思います。それは、何よりも信仰の賜物でもあります。
 ところが、表の葉では取り繕った自分を見せて、裏の葉では色あせ挫折した自分を隠してしまうこともあるでしょう。しかし、そんな自分の弱さでさえも、受け入れて散っていく紅葉でありたいと思います。
 私たちの人生は、私たちが何かをして、それによって私たち自身を表現するものではなく、むしろ神が私たちの生涯において、ご自身を表現するものです。ですから私たちは、もっと安心して嘆き、悲しみ、怒りを表現してもいいのかもしれません。私たちの思いを越えた主のみこころを信頼して、主のものとなって、すべてを主に委ねて歩んでいきましょう。

谷岡 昇(2023年6月25日 週報の裏面より)

おすすめ