生きるにも死ぬにも

およそ存在するものには、すべて始まりがあり、終りがあります。この始まりと終りをもっとも象徴するものこそ、人の生涯そのものです。長寿を全うする人、病気や事故でみじかい生涯をおわるひと。しかしそれぞれに意味ある、尊い人生です。長寿か短命か。結果としてそうなるのであって、別に人が選んでそうなるのではないでしょう。どちらが良いか、そうでないのかでもありません。やがて人は死に直面します。長い生涯を歩んできた人も、一瞬一瞬を必死に生きてきただけで、終りを迎える時、人生のはかなさ、短さを覚えることでしょう。日本人は死について考えることを避ける傾向があります。しかしよくいわれることですが、「人は生きてきたように、死ぬ。」といわれます。

人は必ず死にます。それは避けることの出来ない運命と言える現実です。しかも、その時を人は知りません。10年後かもしれないし、明日かも知れません。もし確実に1年後に、その時が来ると分かっていたら、その1年を惜しむように、人は楽しみと信じることを、からだの許す限り行なおうとするでしょう。もっともやりたいことに没頭します。退屈をもてあましたり、無為徒食に時を過ごすはずもありません。死の近いことを知って、いかに残された時のかけがえなさを真剣に受け止めるに違いありません。

「こうして私は、自分が走ったことが無駄ではなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。さらに、信仰に基づいてあなたがたがいけにえを捧げ、礼拝を行なう際に、たとえ私の血が注がれるとしても、私は喜びます。」

フィリピ2:16,17

パウロは殉教をすでに予測していたようです。人々がいう非業の死を遂げようとしていました。しかし自らの人生を喜び、肯定して、フィリピの教会の人々が「非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝く」事を望みました。それは自らがそう生きたからこそ、若い教会員に言い得たことです。パウロはフィリピの人々の信仰がより良いものになるのなら、殉教の死すら喜ぼうと書き送ったのです。
信仰とは、可能性です。そこ知れぬ腐敗と罪から主イエスは私たちを救い出してくださいました。<神の子> <世にあって星のように輝く>などと言われてフィリピの教会員は、戸惑ったかも知れません。私がフィリピの教会員だったら、気恥ずかしく感じたと思います。けれど、私たちは主の救いにあずかっています。主が導いてくださった人生を喜んでいます。神の子としての生き方に喜びを見い出しています。そうであれば、光源である主イエスの光を少しは反射して、星のように輝くこともできるかも知れません。

思えばこの文章を書いたパウロは、正義と怒りから、キリスト者を迫害し、殺し、傷つける人生から、180度の転換を遂げ、人を生かし、喜びを共にする人間に変えられたことです。過去をあるがままに見つめるといてもたってもおれない悔恨に、身をよじるようなこともあったかも知れません。しかし、神がすべてを許すのです。人は過ちを避けることが出来ないのです。やがて近づく殉教という死に、彼は押しつぶされることなく、輝きと喜びを失うことはなかったのです。

人は死を前にして恐れ、戸惑い、自らを失います。キリスト者がキリスト者であることをいかほど受け止めているかがもっとも問われる時です。人の体力や能力は、確かに年令と共に下降していくかも知れません。しかし、信仰は限りなく高められていくのです。

(2006年04月23日 週報より)

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