平和に向き合う

人は通常、国籍や人種の壁を越えて、互いに交流し、気持ちを通じさせることが出来ます。ところが国と国通しが一旦戦争状態に入るとなると、民と民自身が国家によって、敵として対峙し、相手国の国民を憎悪することが求められる不条理が押し付けられます。日本においてイギリス・アメリカを「鬼畜」と呼び、冷戦中、アメリカ人はロシア人を今とは全く違った目で見ていました。戦争は人の心をもねじまげます。以下の数人の人々は不思議な神の導きで戦火の中で、結びつけられ、神に結ばれた人々です。

まず淵田美津雄という人です。この人はかつて太平洋戦争の引き金となった1941年12月8日のハワイ真珠湾攻撃で300機以上の航空機を率いた攻撃隊長だった人です。戦後、淵田さんは、アメリカにある捕虜収容所から帰還した元日本兵から、浦賀で一つの話を聞いたのです。
アメリカ本土の収容所で一人のアメリカ人の若い女性が傷いついた日本兵に献身的な看護や差し入れをし始めたというのです。やがて元日本兵捕虜全員がその温かい心に深く感激するようになったのです。なぜそこまでしてくれるのか? 兵隊たちは尋ねはじめた。彼女は最初は何も言わなかったそうです。でもあまりに聞かれるので、ついに答えたのです。
じつは彼女の両親は戦前、横浜の関東学院で教壇にたっていた宣教師でした。戦争が勃発したためやむなく、フィリピン移り、宣教活動をしていたのです。そしてやがてフィリピンも日本の支配化に移りコベル宣教師夫妻は捕らえられ、日本語が話せることもあったかもしれません。スパイの容疑がかけられ、有無を言わさず処刑(斬首)されることになったのです。
この宣教師夫妻は斬首される際に、30分時間の猶予をいただきたいとして、聖書を読み、イエスキリストの十字架の祈りを重ねるようにこう祈ったのです。「神よ、今、日本の兵隊が私の妻や、私を斬ろうとして刀を振り上げています。どうかこの人々を許してください。この人たちは自分が何をしようとしているかわからずにいるのですから。」そう祈って、死についていったというのです。
両親の死を知ったマーガレットさんはこの事実を受け入れるのにどれほどの苦痛を強いられただろう。しかし彼女はこれを聞いて、あらためて両親の赦しと愛のこころざしに立とうと決心したのです。彼女は日本人への怒りと憎悪を乗り超えて、終戦後、アメリカに送還されてきた日本兵に対して献身的な支援を思い立ったのです。
多くの元日本兵は深く感動して、日本に帰国してこの事実を周囲の人々に伝えたのでした。淵田さんは、自分は軍人として戦争も正義の名において平和実現の手段と考えてきた。しかしそれは大きな間違いであると気づいたのです。そして戦後のある時期は、真珠湾攻撃でなくなった人々への謝罪を費やしたのです。

じつは淵田さんはもう一人の人から、話を聞いたのです。

戦時中、アメリカ陸軍航空隊で炊事係をやっていた下士官、戦後は宣教師として日本に来たジェイコブ・デシェーザーという人です。デシェーザーは1942年4月東京の初空襲を敢行したドゥーリトル爆撃隊に参加しましたが、乗っていたB25爆撃機が燃料不足から目的地の中国の飛行場にたどり着けず、日本軍占領地に着陸して、捕らえられ、南京の捕虜収容所に投獄されたのです。日本軍の捕虜のあつかいはそれはそれは残虐で、日本人に対する憎悪の気持ちは日一日と強まったのです。
そうする中で彼は英語の聖書の差し入れを依頼し、手にはいったのです。「誰でもキリストにあるなら、その人は新しく作られたものです。古いものは過ぎ去ってみよすべてが新しくなりました。」(1コリント5:17)

デシェーザーは憎しみの連鎖に生きることをやめたのです。地獄のような捕虜収容所で敬虔な祈りをささげた。彼は全く変えられたのです。日本兵への態度も全く違ったものとなった。日本兵がその代わり方の驚かせられたのです。そして戦争が終わったら、こんな残酷なことを平気でしでかしてしまう日本人に神の平和を伝えよう、捕虜収容所でこの人は決心したそうです。
淵田さんはこのデシェーザーから直接、その半生を書いた手記を手渡されこれを粛然として読んだそうです。そして海軍の仲間からは裏切り者呼ばわりされながら、ひとりのキリスト教伝道者としてその生涯を全うされました。殺害されたコベル宣教師夫妻、残された娘さんのマーガレット、虐待されたジェイコブ・デシェーザーさん、淵田さん。戦争はすべての人々を噛み裂いていくのです。

この人々が最初から平和の時代に向き合えたらどんなに良かったことでしょう。マーガレットさんと淵田さんは同じ教会の講壇で話をしたことがあるそうです。まだ平和だからこそ、平和を願うのです。

(2008年11月23日 週報より)

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