色々な生と死

連休に帰省した際、私たちの甥にとってかなりショッキングな出来事がありました。甥の友人が交通事故で突然亡くなってしまったのです。ついこの間まで一緒に学んでいた級友に訪れた突然の死に直面し、18歳に突然訪れた死という現実をどのように受け止めて良いのか判らないといった状態でした。交通事故という一瞬の内に訪れた死でした。

2月には15年間共に暮らしてきた「チボリ(猫)」が、大好きだった家内のひざの上で、息を引き取りました。晩年は、やせこけてしまい、貧血で満足に歩くのもままならない状態の時もありましたが、私達の帰りを待ち、玄関まで出迎えてくれました。少しづつ弱って来て、医者通いをしていました。まさに動物病院からの帰りに訪れた死でした。ゆっくりと時間をかけて訪れた死でした。

3月には、違う甥が脳腫瘍の手術を受けるため入院していました。神経が集中している場所で、手術には困難が伴い18時間にも及びました。幸い手術は成功し、今では学校に行くことが出来るようになるまで回復しました。一時は危ない時もあり、両親は覚悟を決める必要も有ったようですが、多くの人たちによって助けられた命です。

昨年、知人が肝臓の移植手術を米国で受け、元気になって帰国されました。もう移植しか残された選択は無かったようです。日本では生体間での移植しか認められていないようですが、世界の各地ではかなりの移植手術が行われているようです。北欧の国、スウェーデンでは亡くなられた方の遺体は国の所有となり、移植手術を待つ人々のために用いられ、家族の自由にはならないそうです。移植を受けることによって体の一部を取替え、消えかかっている命を取り戻すという本当にドラマチックな裏側には、命を失った臓器提供者(ドナー)の存在、そして、その家族がいます。知人は今でもMr. USA(提供者の氏名等は知らされないのでそのように呼んでいるそうです。)が自分の身体の中に存在していて、日々彼に感謝していると語ってくれました。

色々な生と死を私達は見聞きします。世界の各地で起きている紛争、テレビや新聞紙上をにぎわせている事件等、私達とは別の世界で起きている事柄と捕らえている人が多いのではないでしょうか。人は明日が来ることを、1週間後も変わりなく生きていると当たり前のように、まるで当然のように思っていないでしょうか。事故や病気などによって現実に引き戻された時、初めて人は肉体の弱さ、精神の弱さ、力の無さを痛切に感じ取ることが出来るのではないでしょうか。でもその時が来てからでは本当は遅いのです。

聖書は「目を覚ましていなさい。」「あなた方も用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」と私たちに語っています。イエス様の再臨について語っている場所ですが、常に信仰的に目を覚ましていたいと願っています。又、パウロはヘブライ人への手紙の中で、「・・・すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうでは有りませんか。」と語っています。

イエス様を見上げながら、目の前に引かれている信仰というレールに沿って、皆様と共に日々走り続けて行きたいと願っています。歩いてもいいじゃないですか、一歩一歩進み続けられればと願っています。

T.H (2006年05月14日 週報より)

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