だれもオレを必要としていない

ゴールデンウイークが終わりました。久しぶりに、家族が一緒になって、それぞれに楽しい時を過ごしたご家庭も多かったことでしょう。私たち夫婦も、美術館をまわったり、護憲のデモに参加したりしました。けれど、気になる出来事もありました。このゴールデンウイークのはじめと終わりに、二人の紳士風の男性が教会に来て、いずれも「この三日間何も食べていません。申し訳ないのですが何か食べる物をください。」と蚊の鳴くような声で、訪ねてこられたのです。後半の人は、かなりくたびれて見えましたが、スーツを着て、革靴を履いた、一見サラリーマン風の、日常の私より、ましなカッコのひとでした。どんな人生のドラマがあったのかは知りませんが、少なくもしばらく前までは、どこかの会社で活躍なさっていた方かもしれません。私たちはお金を無心してくる人は基本的にお断りしていますが、空腹から食べ物を求める人には、応じます。「三日間何も食べていない。」という共通の言葉には、ひっかかりをおぼえました。つまり一日、二日は我慢できますが、三日目には空腹の限界を超えるということか、と思ったのです。
いよいよ行き詰って、教会に食べ物を乞う。そんな人生になろうとは、きっと予想もしなかっただろう。能力があって、健康で、人々の期待にもこたえることのできた人が、思いがけない偶然と、偶然が重なって、ついには食べることさえできなくなってしまった。どれほど自分が情けなく、家や財産を失った以上に、自分自身の人間としての価値や自尊心すら手放してしまった状況ではないのかと、つくづくと同情を禁じえませんでした。
10年ほど前のことでした。教会から20メートルほど離れた大栗川にかかる<川端橋>から、60過ぎの女性が身投げしました。事故ではなく、自殺でした。大勢の人々とともに、私もすぐにとんでいきましたが、さほど水もない川に飛び込むなんて、身の毛のよだつ出来事でした。しかしことはそれだけではすまなかったのです。次の週、川端橋から二百メートルほどしか離れていない南大沢よりの橋 <板橋> にこんどは男性が飛び込んだのです。二人とも最終的な生死はわからずじまいでした。

昨年、八王子駅から、自殺する前に電話で話したい、といって、深夜、教会に電話してきた人がいました。四,五十分のやり取りの中で、こんな会話がありました。
私:あなたね、死ぬ、死ぬとおっしゃるけれど、あなたが死んだら悲しむ人が、たくさんいるでしょう。
彼:そんなことはない。誰もオレを必要としていないんだ。家族はオレがいなくなることを望んでいるんだ。・・・・

世の人々からは不必要、無価値と烙印を押された人々。自分などいなくてもいい存在と自分から思い込んでいる人々。かつて主イエスの周りには、そういう人々が雲のように集まったのでした。人生の挫折や転落のきっかけは人さまざまで、一言では推しはかれません。しかし、さまざまなそうした人々との出会いの中で、ふと私は思います。過去、虐待を受けた人々も多いのです。つまり、愛された経験が少ないことが人生の躓きにつながっているようなのです。逆からいえば、無条件で愛されること。無条件で受け入れられることは、はかり知れない人間の活力を生み出します。主イエスはまさにそう歩まれたのでした。主イエスは十字架の死をとげるほど、人々を愛されたのでした。主イエスに出会った人々は「自分などいなくてもいい人間。」と考えることをやめたのです。

しかし、目の前に教会を見ながら、死んでいった人々に、私は何を言ってあげたらいいのだろう。貧相な愛にしか生きられない私。必死で、眼の色をかえて、主イエスを伝えるしかない。主イエスを生きることを通して。せめて。

(2006年05月07日 週報より)

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