変わらぬ愛
何もかも変転し、激動し、変わって行く時代に、わたしたちは生きています。変わらぬものなど何一つないように感じられます。敗戦の教訓から得た貴重な平和への決意もあやうくなるばかりです。ヴェルディのオペラ<リゴレット>のなかで<風の中のような羽根のような>(別名-女心の歌)が歌われます。女性の愛がいかにうつろいやすいかを歌うアリアですが、歌っている本人が女性の敵なのですから、何をかいわんやと言うことでしょう。真の愛とは、決して過去のものにしない愛をさすことでしょう。とはいえ愛し続けると言うことは途方もない忍耐の要することですし、人間の忍耐力は、そうした思いとは正反対に、短命なのです。相手の魅力が薄れてきた。かつては魅力的に見えた自分との違いや言動が許せない。愛と思ってきた思い込みが、賞味期限を過ぎてしまった。・・・・熱情で始まった人と人の愛が、破綻して行くのは、別にめずらしいことではありません。
イスラエルの民の、神への信頼は、まさに風に吹かれる羽のようなたよりないものでした。選民とは名ばかりで、選民らしさなどどこを探しても見当たりませんでした。十戒を奉じていた人が神から離反すると、十戒を端から端まで破ってやる、と言い出すに等しいのです。信仰者として生きてきた人が、いったん信仰から離れると、ふつう一般の世俗的な人々以上に、歯止めを失うように見える人々もいます。イスラエルの民はくり返し、くり返して神の信頼を裏切り続けました。
聖書では、神と、神の民の関係は、たびたび、夫婦の関係として語られます。しかし、裏切りをさほど反省するのでもなく、くり返し、信頼をひっくりかえす夫、あるいは妻を持った身空はどれほどむなしいものでしょうか。そうしたむなしさに、人はどこまで耐えられるものでしょうか。けれど不思議なことに、神の、民への愛は、不変につらぬかれたのです。神の愛は、愛するに値しないもの、敵であるものへも、御子を十字架にかけるほどの、はかり知れない犠牲を惜しまない愛とのべられます。
人間は本来「永遠」には無縁な存在です。明日の自分の命運さえ知りません。しかし、キリスト教信仰に生きるということは、不変の神の愛を人生の土台にしてに生きることです。だから、単なる刹那主義に落ちることはできません。いったんかかげた信条や信仰も、ひるがえすことはしません。どんなに容姿が変わろうと、白髪になろうと、身体は自由さを失おうと、神の愛は少しも変わらないことを信じられるからです。だからこそ、わたしたちも変わらぬ心で、愛と信仰に生きられるように、思えるのです。何もかも、刹那的に、変わりやすく、流れ行く時代ですから、一つくらい決して変わらないもの、信じうるものを持つべきなのです。
(2005年01月23日 週報より)