切り出された岩、掘り出された穴

過去のない人間はいません。過去とは単に過ぎ去った時ではなく、現在こうして生きている人間の基礎、土台となっている時のことです。過去を抜きにして、現在を語ることは出来ないのです。キリスト者は神に導きだされ、救われ、新しい命に生かされて今を迎えている人々です。であればキリストにたどり着くまでの日々は無駄であったかといえば、キリストに出会ったことでそれは新しい意味を持つのです。キリストに出会うまで、人によって、長い時を過ごしたひと、ごく若い年令でキリストに導かれたひとがいます。でもいずれにしてもそれはキリストに向かう道だったのです。

キリスト者とされるということは、大きな人生の岐路であるに違いありません。しかしキリスト者になってからも、ひとは、何度もキリストに出会うと言う経験をさせられるように思います。一回キリストに出会ったら、罪の根がきよめられて二度と罪を犯さない、という<根絶説>なる考え方がありますが、人間とはそうした存在ではありえません。キリスト者であれば意図的な、人間の道義に大きく外れた罪を犯すと言う事はないでしょうが、さまざまに思い違いをしたり、ひとの心を読み違えて間違った思い込みをすることはあり得ることです。人間というあり方は、<あやまち>からのがれられない存在のように思います。
アブラハムの生涯を見つめていて、信仰の父とさえいわれたその人の生涯を描くのに、創世記において、影のようにハガルとイシュマエルの物語が平行して描かれているのです。アブラハムとサラ夫婦には子孫が与えられるという神の約束は与えられましたが、いつまでも果たされる様子がありません。しびれをきらしたサラが、自分自身のエジプト人の若い女奴隷・ハガルから子供を、と夫に懇願して、ハガルはイシュマエルを産みます。
はっきり言って二つの問題があります。一つは、これは神の約束への大きな背反です。神は、サラを通して子供を与える、と言われたのですから。二つ目は、これは、現代のいわゆる試験管ベビーと違って、この場合、夫アブラハムと女奴隷ハガルとは、一旦は妻の了解があったにせよ、明確な性交渉があったことです。妻サラの提案であったこととはいえ、アブラハムとサラ、アブラハムとハガルの人間関係は、それ以前と同質のものであるはずがありませんでした。アブラハムはその後深く悩み、サラは傷つき、だれよりも若いハガルは翻弄されたのです。

やがてイサクが生まれます。それも、ハガルがイシュマエルを産んで14年もたってからです。三人が三様に、お互いを傷つけあって、満身創痍になってのすえの事だったでしょう。アブラハムは、13年も神との断絶を経験して後の事でした。その間、もっとも弱い立場にあったハガルは、身重の身で、荒れ野(つまり砂漠)に放り出されるものの、神の励ましでアブラハムのもとに帰るという苦い体験をしいられます。しかし、アブラハムはサラによる強硬なハガル追放の主張を受け入れ、ハガルを守ろうとはしなかったのです。やがてイサクが誕生し、成長する中でイシュマエルとイサクは同じ父親から生まれた子供として遊ぶようになります。
それを許すことが出来なかったのがサラです。今度はハガルだけでなく、イシュマエルもともに、死の荒れ野に放り出すのです。そしてアブラハムは、前回同様、哀れなハガルとイシュマエルのために、サラにあわれみを乞うことはしないのです。なぜここまでサラの横暴を防ごうとしないのか不思議なほど、アブラハムはサラにたいし、受動的です。しかし、それは、あまりに身勝手ではあるものの、かつての出来事の中でサラが傷つき、すさんでいたかの表れともとれます。ただそうした人間の混乱の中で神の愛は光り輝きます。やっと持つことを許されたわずかな皮袋の水も尽き、いよいよ死がおしよせたと思っていたハガルでしたが、自分を取り戻した時に見たのは水の井戸でした。ハガルとイシュマエルは絶望の放浪をしていたように感じていましたが、じつは神に導かれて井戸に近づいていたのでした。

アブラハムは、よもや生き残れるはずもない荒れ野に哀れな親子をつきはなすという、もう一つの罪を犯したのでした。結果は神による救いが伸べられはしましたが、アブラハムはもうひとつ失敗を加えたのでした。こうしたことがなければ、アブラハムは正真正銘の聖者でしょう。しかし、アブラハムは一つ躓き、その躓きが、次の躓きをもたらします。ただ、ひとはアブラハムを見て、勝ち誇ることなど出来ないのです。アブラハムに、自分を投影して見るだけなのです。大小はあるでしょうが、ひとは躓きながら不器用に人生を生きていくのです。人生にヒーローなどいないのです。
ときおり、キリスト教会でも、肩をいからせて歩いているようなオエライさんがいたりします。でも、本当はそんな風に歩いてはならない事実を、周囲のひとは知っているのです。ひとはみなアブラハムのように生きるべきなのです。つまり自分の弱さを自覚して、そうして傷つけてしまった私のハガルやイシュマエルを覚えることです。それでも、神がそのわざのために、私を用いようとして下さっていることを感謝すべきことをです。
冒頭のタイトルの言葉は、新共同訳では『あなたたちが切り出されてきた元の岩 掘り出された岩穴に目を注げ。』イザヤ書51:1の後半の言葉です。

(2005年11月20日 週報より)

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