共鳴する心を

「音叉」と言うU字型をした発音体があります。一方を打つと、共鳴を起こして、独特の音がします。ひとりの人の心と、もうひとりの人の心が、そうして共鳴することがあります。けれど、人の心は、当然共鳴してしかるべき所で、全く響かないことも多くあります。アウシュビッツ解放から60年が過ぎたと大々的に報じられました。なぜこんな理不尽で恐ろしいことが起らねばならなかったのだろうか。ただ、そこ知れぬ人間の心の闇としかいいようがないのです。
「ユダヤ人迫害史」(黒川知文著)という本が手許にあります。中世以降、特に十字軍によるユダヤ人殺戮、教会による意図的なユダヤ人差別、<死の舞踏>といわれたペストの流行でさえもユダヤ人の悪行の結果とされ、ことあるごとに全ヨーロッパのあちこちで、数千、数万のユダヤ人が集団殺戮されたことがのべられています。そうした迫害の嵐の前では、良心を持った一個人の同情、友情、憐れみの思いは、凍り付いてしまうのでしょうか。
やがて16世紀、17世紀には比較的ユダヤ人に寛大であったポーランドに多くのユダヤ人が移住することになり、それは、組織的虐殺事件(ポグロム)の頻発につながり、ナチ政府はアウシュビッツに、殺人工場である強制収容所を建設します。1941年当時、ヨーロッパには870万人のユダヤ人が生存していましたが、1945年までに、そのうちの520万人が殺戮されたのだそうです。

フランスカトリック教会は数年前(1997年)に、戦時中ビシー政権下で、教会が自らを守るために、ユダヤ人のアウシュビッツ移送に沈黙したことを、正式に謝罪しました。この本によるとユダヤ人迫害はキリスト教地区で起こった現象であり、また古代から、中世にいたるキリスト教聖職者の偏ったユダヤ人観が、のちのユダヤ人迫害の発端となったとのべます。ユダヤ人迫害が比較的少なかったのがイギリスですら、1910年にウェールズで、人々は讃美歌を歌いながら、ユダヤ人襲撃を行なったのだそうです。
なぜ?と思います。キリスト教徒と標榜する人が、自分とは何の関係のないユダヤ人を、知り合いだったり、友人でもあるユダヤ人を、迫害、虐殺のターゲットにできるのでしょうか。讃美歌を歌いながら、ユダヤ人を殺戮して行った人々の心はなんだったのでしょう。人間とは、かくも簡単に他人の意見にそそのかされ、宣伝にのせられる存在なのでしょうか。

1947年イスラエル建国以降、かつてのユダヤ人のような辛酸を味わっているのはパレスチナ人です。あれだけの痛みを味わった人々が、一方的に奪われる人の心が分からないはずはないように思うのですが、人の心は音叉のように共鳴しないのです。でも、「飢えている人に食べ物を与え、渇いている人に飲ませ、裸の人に着せ、牢にいる人を訪ねる」痛む心を思いやり、想像し、共鳴する心は大切な信仰の課題です。そう主イエスが言われたのです。つまりわれわれは、思いやれない存在なのです。他人の苦しみに鈍いもの。そうした自分自身を受けとめて、苦しむ人々にわずかながらも目を向けるものでありたい。

(2005年01月30日 週報より)

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