信頼関係
「清純派」を売り物にしてきた女優・歌手として知られてきた女性が覚醒剤中毒者だったことが判明し、大騒ぎになっています。社会的に知られたイメージと実態があまりにかけ離れていたからです。しかしこうしたことは時折起こることで、そのたびに驚いたり、話題になったりします。警察官、教師、裁判官、牧師も含めて、仕事そのものが、一定の倫理性を求められる職業があるものです。つまりそうした信頼関係こそ、これらの人々は他者とかかわるベースなのです。お金はあるけど、信用できないという人にはこうした職業はふさわしくありません。
けれど自分はどれほど他人の信頼に値する人間だろうと自問し始めると、果たしてどうなのだろうと思わざるを得ません。キリストの弟子たちは、イエスキリストを主と信じる一方で、弟子とされたことを喜び、誇らしく思う部分もあったでしょう。しかし彼らはキリストの弟子として選ばれるのに、ほんとうに、ふさわしい人物たちだったでしょうか。
弟子たちの指導者として立てられたのはペトロでした。イエスキリストは、このペトロに将来の教会の基礎を築く使命を託しました。ペトロは、まだ問題が起こらないときには、キリストのために一命を投げうつ覚悟さえありました。しかし土壇場をむかえて、ペトロは、<イエスなど知らない>と3度にわたって否定してしまいました。ペトロは福音書にも、使徒言行録にも、失敗の多い、弱さをもった人物として描かれています。にもかかわらず、他の誰でもなく、イエスはペトロこそ後の教会を代表する人物として、彼を信頼し、最も重要な使命を託したのです。
わたしたちは特に教会にあっては、一度でも致命的な失敗をした人物を指導者として仰ぐことは、ごめんだという気になります。ですがイエスがこの信頼に値しないペトロに、深いきずなを託し、どこまでも信頼しようとしたことは深く教えられます。ペトロの改悛は悔い崩折れるほどのものだったでしょう。弟子の名の値しない自分を深く自覚したのです。
しかしイエスはそのペトロをこそ、なお信頼して、教会を託したのです。ペトロは自分でも、自分自身を信頼する自信は無かったはずです。他の弟子のだれが、弟子たちの指導者として、ペトロ自身を立ててくれるのか、胸を張って指導者然と檄(げき)を飛ばすことなど出来るはずもありません。しかしイエスはどこまでもペテロを信頼してあげたのです。たとえ自分でも見込みがたたないと思える人間でも、イエスは信頼なさるのです。
絶対に信用できる人間だけを相手にして、関係を作り上げていこうとする行き方もないわけではないでしょう。しかしそれは打算的な人間関係であり、判断が合わないときにはとたんに相手に対し猜疑心をかかえることになります。
<わたしを裏切っても、否定しても、なお、あなたを信じてあげよう。>
そこまでの赦しにあふれた信頼に支えられるとき、人は立ち上がることが出来るのです。
現代は何を信じていいのか、だれを信じていいのやら、分かりにくい、見えにくい時代です。わたしたちは他人のことばかり問題にしますが、自分のことですら何もかも判っているわけではありません。いっときの感情に押し流され、身近な人間の心を傷つけてしまうことはだれにでも起こります。
こんなわたしを、ペトロに対したときのように、深く受け入れ、信じてくださるイエスを仰ぐことはどんなに大切なことでしょう。あの女優さんも、覚醒剤に依存する深い孤独を、このイエスに埋めていただけたら、きっと立ち直れる。
(2009年08月30日 週報より)