信仰によって生きる

「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげようナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」

使徒言行録3:6

ペトロを代表として福音書に現われる弟子達と、使徒言行録に登場する使徒たちは別人と思われても不思議はありません。けれど間違いなくかれらは同一の人物達です。でもなんという大きな違いがそこにあるのでしょう。ペトロ以外にもパウロ、バルナバ、ステファノ、アキラとプリスキラ。国籍年齢はちがうけれど使徒言行録の弟子たちは困難な闘いを見事に生き抜いたように見えます。
福音書の時代の弟子たちは、迷いと疑いを心に抱いていました。しかし使徒言行録に描かれる弟子たちは迷いを克服し、たしかな信仰の主体性に生きる姿があります。コンパスで円を描くには中心をきちんと定めなければなりません。わたしたちが抱えるかもしれない健康の問題、家族の問題、職場や対人関係でさえ、キリスト教信仰を鮮明に生きるかどうかで、ことの良し悪しが変わってくるということはおおいにあります。

主イエスの十字架を前にひどく恐れ、逃げ出し、あるいは遠くから眺めていただけの人々が、自らの殉教をすら恐れない信仰者となっていったのは、彼らの生来のもの、生まれ持った力強さ、個人的資質だったのでしょうか。驚くべきことですが、そうではなかったのです。それは福音そのものの力だったのです。自分自身の裏切りによって主と仰いだ人が死んだとなれば、普通は人生をやり直すことは難しいでしょう。自分が信じた生き方が間違ったゆえに、罪のない人を大勢死に至らしめたとなれば、人の前でえらそうなことを言うことは不可能です。自分はもうだめだ、死んだほうがマシだと思い込むほかない人間が、教育や、環境を変えることなく、再生・新生(regeneration)する道があると言うことを弟子たちの歩みはあらわします。

弟子たちのこの変化は全く外から、聖霊によって与えられたものでした。自分でもそんな風になろうとは思わなかった道。復活し生けるキリストの力が弟子達に与えられたのでした。わたしたちは見える世界、聞いたり、感じたり、五感で感じ取れる世界しか信じられないのです。けれど、わたしたちの人生も世界も、わたしたちの意向でどうにでもなるわけでは決してありません。人間の力を超えるただならぬ存在が確かにあります。
現代は<どうがんばっても、個人の力は知れたもの。人生など、あきらめるほかどうにもならないではないか。>とささやく声ばかり聞こえてきます。しかしあの成人していた弟子たちを、その前と後で鮮やかに二分するような変化を与えた神が、同様にわたしたちをも帰る力があるのです。キリスト教信仰とはそうしたものです。弟子たちを根本的に変えた神をこうしたときだからこそ、見つめ続けたいと思います。

(2009年08月23日 週報より)

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