十字架の道行き

今週は教会暦の上では受難週を迎えています。時折カトリック教会を訪ねますと、小さな礼拝堂でも、主イエスの十字架の道行きが、絵や彫刻で掲げられていることがあります。かつては字が読めない人が多かった中世の教会では、キリストの最後の十字架への道行きが視覚的に表現される必要があったのかもしれません。でも聖書が読めようと、読めまいと、キリストの十字架の道行きが見える形で教会の中にあらわされていると、イエスキリストの最後の御姿は見る者の心の中に迫ってくる思いが致します。

十字架の道行きの中で、70キロkgもある十字架の横木を背負えなくなった主イエスの代わりに、無理やりこれを背負わされた<クレネのシモン>はゴルゴタへの短い主と共なる歩みの中で、それがきっかけでキリスト者になったのでした。クレネのシモンは十字架の道行きの第5ステーションです。そして6ステーションとして登場するのが<ベロニカ>なる女性です。新約聖書はそれぞれの目的のもとに書かれていますから、キリストの出来事がすべて描かれているとは言えません。教会の長い歴史の中には伝説的に保存されている物語があります。ヴェロニカは,鞭打たれ、いばらの冠を押し付けられ、血にまみれ衰弱するイエスが、それにふさわしい罪人だとは思えなかった。そこで壺に水を用意し、ハンカチをして、主イエスの一杯の水と、その御顔をハンカチでぬぐって差し上げようと考えたのです。水はローマ兵により阻止されましたが、ヴェロニカは主イエスの顔をぬぐうことはかないました。そしてそこには主イエスの御顔がくっきりと描かれていた・・・・というのです。

「水をください。」 原爆投下後の広島や長崎で多くの被害者たちがそう求めたと伝えられます。主イエスの言葉です。「はっきり言っておく。私の弟子だという理由でこの小さな者の一人に、冷たい水いっぱいでも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」(マタイ10:41) 何か主イエスはやがてご自身が苦しめられ、鞭打たれ、焼けつくような痛みと渇きの中で、水を求めるご自身の姿を予想しているような気すらします。

飢えることはつらいことです。けれど渇く人は次の瞬間の生死すら危ぶまれる人です。この上なく命が危ぶまれる人。弱い立場の人。主イエスはそこまで自ら苦しんでくださいました。今週わたしたちも主イエスの後に従います。

(2015年03月29日 週報より)

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