悲しみの中で

天災は避けることのできない悲劇です。まして今回の中国・四川のような阪神大震災の30倍にも匹敵するというような地震に、人は、なすすべもありません。瓦礫の中に生き埋めになった人々は今回、たまたま、四川の人々だったけれども、次回はわたしであり、家族であるかもしれない。事は遠い場所で起こったわれわれには無縁のできごととは思えない感情が沸き立ちます。
地震が伝えられた翌日、たまらない思いで私は日本赤十字を通して1レプタを送金しました。CNN放送の震災報道では次のような字幕が流れていました。Hoping against hope <望みえずして、なお望み・・・>

しかしそのニュースの中で、23歳の幼稚園教師が、幼子を救うために押し寄せてきた石を自ら体で受けて、亡くなって行った出来事が伝えられました。そうした方々がひとりのみならず複数いたとのことでした。恐怖の中で、自分が助かるだけで精一杯のはずであり、それが悪いはずがありません。しかし、身を挺してさえ、幼子を救おうとする人の心。そうして他者のために生きようとする人々を失う無念さを覚えずにはおらないことです。
阪神の震災は早朝のことでした。神戸の教会の老信徒が圧死したのです。しかし、二人はその時聖書を開いて朝の祈りの最中でした。心あわせて他者のためのとりなしに祈りをして、祈りの姿勢で、聖書を開いたまま亡くなっておられたのです。

ひとの人生の大半のとき、人は幸せにすごします。しかし、同時に、人生には不運な出来事、悲哀というほかはない出来事が必ず伴います。病気のとき、失意のとき、苦しみのときを過ごさない人生などありえないでしょう。しかし、だからといって、人は<不幸な>人生を歩むのではありません。病気や死、悲しみや失意に直面しつつも、ひとは時折、驚くほどの勇気、忍耐をもって出来事に立ち向かうのです。
主イエスは他人が、不幸としか思えないその事実に<神の業が現れるため>といわれました。ひとは病気や悲しみや死にすら勝利することが出来るのです。他人が不幸そのものとしか思えない出来事、状態であっても、イエスキリストにあって見直すと、それは神のみわざが現れる場所になるのです。自らの身を挺して幼い子供を救ったという23歳の幼稚園の女性教師。

災害は耐え難い悲劇ですが、そこに心豊かな人々の生きるあかしがともし火をもたらします。<だからわたしは不幸なのだ。>何がしかの理由をあげて自分の不幸を口にするのはやめよう。私たちはつらい何かに直面することは、避けがたい。でもそこに神がお出でになるのです。人が不幸というその出来事を神の業が現れる機会にしてくださる神をしっかりと、見上げたい。

そして遠い四川の人々に、心からの慰めと力を、祈りたい。

(2008年05月18日 週報より)

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