リコルダーレ・メ – 私を覚えてください

私は世間知らずで、狭い世界しか知らない人間で、この年齢(トシ)を迎えています。ただ人生の時だけが恐るべき早さで過ぎてしまったような気がしています。けれど、その中で、忘れられない出来事や事件が、いくつも経験の記憶の中に深く刻まれてもいます。
40年以上前のことですが、かつてJ・F・ケネディ大統領が暗殺されたあと、ボストンの聖十字架教会という大聖堂で、追悼ミサが行われ、モーツアルトのレクイエムによって、礼拝が行われ、それを逐一録音したレコードが売り出されたのです。当時の私は20歳ですから、3,600円は安いものではなかったのですが、購入して、大切に保管していたのです。演奏したのはボストン交響楽団、指揮者はエーリッヒ・ラインスドルフという当時高名な指揮者でした。コンサートではないので、礼拝の始まりを示す鈴が聞こえ、参加者のすすり泣く声、こだまするような聖堂をつつむ騒音がきこえ、司祭の司式の言葉、祈りの声が録音されており、宗教音楽は教会で演奏されてこそ深い共感が生まれることをあらためて実感する録音です。当時評判になったレコードですから、記憶している人も、私の年齢なら少なくないと思います。

レクイエム―死者のためのミサ曲。たしかにカテゴリーとしてはそういう位置づけがされる音楽です。そしてこれがモーツアルトの遺作です。この中の第7曲の<ラクリモーサ>(涙の日)は切ないほど美しい曲です。モーツアルトはこの曲を最後に地上を去ったのでした。残りは弟子のジュスマイアーという人が完成させたといわれます。聞くたびに、この私のようなど素人でさえも、ラクリモーサまでと、それ以降の弟子による部分とは違うと感じます。それはそう思いこんでいるからなのか、作曲技法上違うのかは、教えていただけると感謝です。

そしてレクイエムにおいて、<ラクリモサ>のまえに<リコルダーレ>(思い出してください)が歌われます。モーツアルトの曲では四重唱です。RICORDARE は現代イタリア語でもそのまま〔思い出す〕〔想起する〕という意味で使われます。レクイエム正文では「十字架でわたしを贖われた御身よ、その正義によって審かれる前に、私を赦しの恩恵をもって、御国に入れたまえ。」と歌われます。これは聖書を読んでいる人なら、すぐに連想がつきます。本日の聖書日課にある、キリストと共に十字架についた強盗の祈りです。モーツアルトは強盗の祈りをわが祈りとして、<リコルダーレ>を作曲し、そして<ラクリモサ>「涙ながらのその日よ。罪びとは灰の中から立ち、審きを待てり。さらば神よ、憐れみ深きイエスよ、彼らを赦したまえ」をモーツアルトは臨終の床で、友人と歌いつつ、息を引き取ったといわれます。

足音を立てて近付いてくる自分の死をまえに、自分が生きてきた意味はなんだったのか、その時点でモーツアルトが自分に問うたのは、人間業とも思えない天才振りから生まれた、途方もない作品を生み出した達成感を神の前に誇ることではなく、自らの罪深さを深く自覚する心。十字架に釘付けられた強盗と同じ祈りでした。キリスト者だから、洗礼を受けているから、天国に入れることは当然と、確信を持つことは悪くはないでしょう。出来るだけ神に近く、神の前に確信にあふれた生き方をすることは大切です。
しかし人は神に近くあればあるほど、神に遠い現実を持つこともあります。まさしくイエスを十字架に追いやった祭司長・律法学者という人々は、本当は神に近い人々でした。人間誰一人、当然のように、大手を振って天国にいけるような存在の人は、いるはずもないのではないでしょう。もし天国にいけるとすれば、われわれの想像や常識をはるかに越えた神の憐れみと寛容のゆえでしょう。まさにモーツアルトの目には、今まで主イエスをあざけっていた十字架の強盗は、自分自身の姿に重なって 受け止められたのかもしれません。

(2011年04月17日 週報より)

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