渇く時代にこそ!

「私はまた新しい天と新しい地とを見た。・・・見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み。人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」

ヨハネ黙示録21:1,3,4

平和な日常生活がいとなまれる一方で、社会の片隅から、悲しみ、怒り、こころの荒みが徐々に浸潤しているような現実を覚えさせられます。太平洋の対岸のアメリカでは、途方もない大きな問題を抱えつつも、大胆な改革をめざす政治指導者への交代を経て、それでも問題克服が可能なのだ<Yes, we can!>と人々は明日への希望をつなげているように見えます。希望を見出すためには何らかの価値観の創造・転換がなければ、ことは明日、変わるはずはありません。

ヨハネ黙示録が書かれた時代は、教会にとって、希望など見えようもない時代だったのです。ローマ帝国による迫害が本格化する中で、信仰はストレートに表現することが困難でした。教会外の人々には理解できない象徴や喩えを用いてでしか(黙示表現)、信仰を語ることができない時代を迎えていました。相手は強大で無敵なローマ帝国。
しかし、帝国が政治的・経済的・軍事的には強大であっても、人々の心はあれはて、剣闘士の流血の戦いが庶民の最高の娯楽でした。やがて皇帝が次々と暗殺される時代を迎えます。道徳が崩壊し、神なしと見える時代のなかで、人がいかに神を必要とする存在なのかが見えてくるのです。
人は本来、神とともに生きるべき存在で、神を見失った現実の中で、人は死と悲しみと叫びの痛みを負うのです。

電車は決められたレールの上を走ってこそ、快適な運行が可能です。大空を行く飛行機ですら、飛行ルート、高度は決められています。電車がレールから外れ、飛行機が通常のルートから離れると、そこに待つのは悲劇以外の何物でもありません。暴力と破壊をによる征服とそこから生み出される奴隷による労働を必然とするローマ社会。それを可能にさせた非情な帝国主義は人の道に外れたものでした。
黙示録を生み出した教会は、強大に見えるローマ社会が、土台から腐り始めていることを知っていました。教会の力は非力そのものでしたが、彼らを支え、吹けば飛ぶほどの教会を、教会として立たせてくださる神が、どれほど大きな存在であることを、信じていたのです。

目に見える世界は、教会の存続の、わずかな可能性すら全く見えないような状況だったに違いありません。キリストが勝利するなど、お笑いのネタにもならなかったでしょう。でも人々は信じたのです。厳しい迫害の中で、次から次に信じる人、教会に加わる人々は続いたのです。軍隊の中ですら、厳しい迫害を越えてキリスト者は増えていったのです。ローマの文化の中で、人々はキリストを主とするところに結実する生き方、倫理を渇くように求めたのでした。厳しい迫害下に<もはや、死はなく、もはや悲しみも嘆きも、労苦もない。>と人々は言い切ったのでした。目に見える状況で物事を判断してはならないのです。信じられないほどの事を神はなしてくださるのです。
信じられないからこそ、神を信じるのです。

(2009年05月17日 週報より)

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