祝福される聖餐とは

先日青年会時代の友人二人と20年ぶりぐらいに歓談する機会があった。かつては毎週のようにあちこち出掛けては夜遅くまで遊んで食べて色々なことを議論していたものだった。一人はドラムが趣味という変わり者の牧師で現在は教区議長をしている。もう一人は長い間アメリカに留学していて今は神学大学で英語や新約学を教えている。

キャンパスの中にある教員住宅で夕食をご馳走になったのだが、初っ端から「聖餐問題」で大激論である。問題の発端となった「教師退任勧告問題」については二人とも手続き論として全くの誤りとして教団側特に教団議長の判断を拙速とすることで一致する。しかしこと「オープン」の是非については、これも一致して否、洗礼・信仰告白の根幹に関わる問題として全く折り合う余地がなかった。旧知の友人二人からの激烈なる反論を受けながら、「どうしてこのようなことになってしまうのだろうか?」という思いが常に脳裏をよぎっていた。

一方は「未受洗者」に聖餐を与えることが、「洗礼を軽視している」という。その時々の心の有り様によって聖餐を受けるか受けないかといった判断がなされることを「心情主義」として非難し、根幹に据えられるべき「洗礼・信仰告白」という「形」、それに基づく組織の一致(ユニティ)を求めて止まない。
他方は聖餐という場における一方的な排除、疎外感を重視し、洗礼へと至る道筋が決して一つではないことを訴える。洗礼を受けること(受洗)が絶対化され、ある意味で「律法主義」と化しているのではないかと訴える。

それぞれの話しを聞きながら、どっちもどっち、それぞれが思い至らない部分があり、ある部分で相手の真意を掴み損ねたまま、虚像が膨らみ自己主張だけが横行しているのではないか、様々な立場の人たちの文章を機関誌やブログで読んでそうした印象が残った。「オープン」か「クローズド」か、どちらかを明白に表明しなければならないといった問題ではないのではないか。もちろん問題の本質について深く学び、自らの信仰そのものを問い返す機会としなければならない。そうした一方で組織として自らの方針に違背するものは排除しなければならない、そうした硬直した有り様を解きほぐしていく手立てはないものだろうか。キリスト者として、何を大切なものとして位置づけるのか。迷うときは、常にイエスならどうしただろうかと思う。

イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。『子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。』そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。

マルコ10:13-16

五十嵐 彰 (2009年05月10日 週報より)

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