足を洗う主イエス

今は教会暦ではレント(四旬節)のさなかです。十字架にかかる主イエスを思うときです。十字架の死を前に主イエスは弟子達と食事をともにしました。食することは、食べ物を、胃袋に放り込む作業ではなく、心を分かち合う神聖なほどのことであることを、私たちは忘れています。
「イエスは、この世から父のもとに移る御自分の時が来たことを悟り。世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛しぬかれた。」(ヨハネ13 : 1)
この上なくとはいかほど高い愛なのかは、人の想像を超えたものです。人間の愛はエゴが絡んでいますから、限定的、せつな的、部分的でしかありません。<きわみまで愛された>と文語訳は述べます。

その時、主イエスは突然食事の席から立ち上がってタオルを腰に巻いて一人ひとりの弟子達の足を洗い始めたのでした。乾燥したパレスチナで客の足を洗うのは奴隷の務めだったといわれます。弟子たちは序列の上位に上ることは願っても、奴隷のように他人の足を洗うことはけっして望まなかった。たとえ主イエスの足であっても。
確かに乾燥した大地を歩き回る弟子達の足は、汗と泥にまみれる部位です。同時に足は心そのものなのです。人がどこに足を向けたのかは、その人生そのものなのです。敬虔な人は教会に行く。子煩悩な人はこどもとディズニーランドに行く。人にもよるがギャンブル好きは競馬場やパチンコに行く。好色な人間はプロの女性のところに? 足にはそれら全てが記録されているといえます。足は心そのものとさえ言えます。

主イエスは足を洗うことを買ってでられました。ペトロは思わず言いました。「主よ、あなたが私の足を洗ってくださるのですか。・・・私の足など、決して洗わないでください。」ペトロもかつての日、踏み込んではならない場所に、足を踏み入れていたかもしれない。ペトロの足に過去の罪が記憶されていたかもしれない。主イエスは、『「もし私があなたを洗わないなら、あなたは私と何のかかわりもないことになる。」と答えられた。』(ヨハネ13 : 8)

主イエスがわれわれと関わってくださるところは、私たちの罪や、弱さや、醜いところ、けがれたところ、人に触れてほしくない部分です。キリスト者になろうとする人はむしろ向上心の高い人、努力家、清い心を目指す人が多いことは知っています。しかし人は完全ではありません。主イエスはわれわれのよいところ、長所は認められます。しかし同時に私たちは破れのある人間です。努力し、向上心というモチベーションが高いほど、破れるときひどく落ち込むのです。
主イエスがわれわれとつながる部分はそうしたところなのです。ペトロのその後、三度、主イエスを否みました。失敗するたびに、主イエスの洗足の出来事をペトロは思い起こしたことでしょう。あるがままのわたしたちを主イエスは受け止めてくださるのです。弱さや、破れを持ったわたしたちを。

(2008年03月02日 週報より)

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