讃美の心
「つくり笑い」という言葉があります。顔で笑って、心の中では笑っていないのです。失笑、笑殺、笑止。いくつかの笑えない表現が日本語にはあります。とはいえ「こぼれるような微笑み」という言葉も日本語にはあります。造る必要のない笑い。心の内側から湧き上がって、充ち溢れて、こぼれだしてくる笑い。本物の「笑い」です。こうした人々に出会うとき、人はこころすすがれ、さわやかさに高められるような思いに誘われます。
微笑みはドラマになりにくいのでしょうか。私たちが日常に見聞きするのは叫びであり、嘆き、怒り、恨み、憎悪する人間の感情です。心の中に自然に湧き上がる感情が叫びや怒りだとすると、その人の人生は灰色で輝きに欠けるものです。
主イエスは「聞こえる。幼子や乳飲み子の口に、あなたは讃美を歌わせた」と言われました。讃美のこころは顔の表情と共に人の口に上ります。讃美は賛美の心なくしてことば、人の口に上りません。神が野にいた貧しい羊飼いの少年たちに讃美の心を与えた時、羊飼いたちは、もうぼやくことも嘆くこともしませんでした。
人が他人の批判や否定でなく、神への賛美と他者を受け入れる心が与えられる時、それは神による奇跡と言えるかもしれません。魂の奥底から本来であれば自分の境遇や能力を嘆くところを、賛美と感謝の心が溢れこぼれるならそれは恵みの奇跡と言えます。
親からあふれるばかりの愛情を注がれ、モノを豊かに与えられ、なおかつ不満をかこつ親に反抗する若者は少なくありません。私たちが子どもたちに是非渡すべきはこの信仰であり、賛美の心であることは言うまでもありません。
神によって一人でも多くの人々が満ち足りた心、讃美と微笑みのこころがあたえられますように。アーメン
(2022年6月26日 週報より)