重荷を負いつつ
重荷について新約聖書にはさまざまに語ります。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28)
「めいめいが、自分の重荷を担うべきです。」(ガラテヤ6:5)
「私たちは重荷を負ってうめいています。」(2コリント5:4)
「(わたしたちは)すべての重荷やからみつく罪をかなぐり捨てて自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか。」(ヘブライ12:1)
「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し・・・」ときおり玄関の置物としてこの言葉を置いている家があります。特別な思いがあってそうしておかれているかどうかは分かりません。でも人が通常どれほど快活に、あるいは平静に日々を過ごしていようと、その心のうちには深い深刻な重荷を抱え込んでいると言うことは、決して特別なことではありません。そもそも心の重荷を抱え込んでいない人など、居ないのではないかとすら思える。にもかかわらず人は平静に、そして快活に振舞う。それは心を偽っていることだろうか。たしかに悩んでいるのだから、素直にそれを顔に表し、他人にあたり散らしたり、不愉快な表情で日常を過ごすという人もいるかもしれない。それはその人にとっては仕方のないことだろう。
けれど教会というところは不思議な現実を持ちます。教会を知らない人々は、毎週礼拝に集う人々は何の不安も心配もない人々だろうと勝手に思い込んでいる人が少なくないのです。たしかに礼拝に集う人々の表情をみると穏やかな微笑みだったり、静かな平安にあふれた表情にあふれています。ですから何の心配もない人々と見えるのかもしれません。でもそれは全く違います。教会に集っている人々の現実の日々は、多くの重荷と心労と不安にかこまれている一般の人々となんら変わりません。否、それ以上の困難もあります。みずから重大な病を得、身近な家族も大病を抱えつつ、それでも微笑を失わずに礼拝に出で立つ人々。それは決して例外ではない。教会というところはとても不思議な感じがするのです。
教会の交わりの中で、兄弟姉妹がそうした重荷を抱えている現実が少しづつ見えてきます。それはお互いに代わってあげたくても、どうにもならない現実であることも分かってきます。でもそれだけにその人の重荷を祈りをとおして担おうとする思いが交錯するのです。そうした思いはただ空をきる思いではなく、神の手に届くのです。十字架をすら引き受けてくださったイエスキリストはそうした祈り、求めを決して軽く見過ごしはしないのです。
海には巨大な船が航行しています。巨大な船が航行するためにはそれにふさわしい重心を取る重しが必要だという話を聞きました。たとえば15万トンの貨物船だと、5万トンほどの重しとしてのバラスト水が必要になると言うことだそうです。そのバランスを間違うと、船は重心が上がり横転します。人も、それぞれの人生行路を行く上でさまざまな重荷を抱えます。当然重荷が取り去られるように祈るのです。でも取り去られることのない重荷も当然抱え込みます。その問題で悩み、眠れない夜を過ごすかもしれません。でもその現実が、人に深い人生理解や他人への思いやりを与えることもあります。その苦しみがパウロをなお偉大な宣教者につくりかえ、聴力を失ったベートーヴェンに第9交響曲の作曲に向かわしめたといえるかもしれない。
(2012年06月17日 週報より)