イエスの祈りに支えられ

新聞を追うと7月はテロの月とすら言えました。7月1日バングラデシュのダッカでレストランが襲われ28名がなくなりました。イタリア人9名、日本人でJICAの職員の方々7名が犠牲になったのでした。7月3日にバクダッドで292人の人々が犠牲になりました。7月14日のフランス革命記念日(パリ祭)ではニースで84人もの人々が犠牲となりました。7月19日にはドイツのビュルツブルク(ロマンチック街道の美しい街)近くを走行していた列車内で、アフガニスタン難民の少年が斧で4人の人に重傷を負わせた。新聞は恩を仇で返した、と伝えました。そして7月22日にミュンヘンのハンバーガーショップが襲われ、こどもを含む9名が犠牲になりました。

しばしばテロを計画し実行する若者たちが、単純に貧しく、生活が困窮している人々ではなく、むしろ知的レベルも高く、豊かな生活を送っていたケースが多いといわれます。ダッカのテロ実行者のひとりが、昨年まで京都の立命館大学で国際関係学部の准教授をしていたモハマド・サイフラ・オジャキという名前のバングラデシュ人だったことが判明したと伝えられました。新聞の写真ではテロリストとは程遠いスーツ姿の似合う青年に見えます。テロ実行者は裕福で知的なレベルも高い。しかし彼らの行ったテロの残虐性と裕福で知的なバックグラウンドはどこで繋がるのでしょうか。

どこでどう繋がるかは不明ですが、ことによると、尽きるところ人間とはそうした存在であるのかもしれない。どんなに豊かでも、どこまで知的なバックグラウンドに生まれても、人間性のうちには極めて残虐で非人間的な根が潜んでいるのかもしれません。主イエスが十字架に釘づけにされる時「父よ、彼らをお許しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)と祈られたのです。主イエスを十字架にかけた人々は律法学者、祭司、ファリサイ人です。ユダヤ社会のもっとも知的で、良心的であるはずの人々によるイエス・キリストの十字架への釘づけという残虐行為でした。人間とはたとえ人生経験を積んだ宗教家、学問を積んだ学者であっても心のどこかに<何をしているのかわからない、愚かなことをやってのける>愚かさを秘めているものかもしれない。主イエスはだれのために祈られたでしょう。イエスを十字架に釘付けするローマ兵のため? 敵対した律法学者、祭司、ファリサイ人のため? そうかもしれない。でも同時に私のため、あなたのために祈られたに違いない。
敬けんなユダヤの指導者は、人間性が堕落し、品性下劣なやからだったからではないでしょう。むしろ自分ほど正しい人間はいないという自負、正義感にあふれた人々だったのです。おそらくダッカのテロリストたちもイスラム原理主義から言えば、それなりの正義感から、イスラムの敵ではありえない、むしろバングラデシュの将来のために献身的に労苦している人々を、拷問して切り刻んだのです。現代はとどめようもなく思い違いの時代です。先週は全く犯罪と無縁のひとりの人を、八王子警察が100日近くも!罪を認めよ、と迫って拘留していた事実が過ちであると判明し、検察は本人に謝罪しました。「自分には問題などない。」「わたしは絶対的に正しい。」そう思いこむ中で、わたしたちは実は<自分が何をしているかわからなく>なっています。人間存在は大学准教授の位置から、凶悪なテロリストへと一挙に急降下しうるのです。人間の自己理解、自覚はそこまでもろいのです。しかも私たちの関心はいつも他者です。他人のことを話題にし、他人の愚かさを笑って、自分はよりマシだと思いたいのです。そうすること自体、自分が見えなくなっていることです。
主イエスが十字架に釘づけにされ、そのハンマーにうめきながら <あなたは何をしているのかわからない>と言いつつ私たちのために祈ってくださった事実は軽くありまん。キリスト教信仰でさえ受け止め方で全く違った姿を現します。真実に、私はこの主の祈りにとらえられているに過ぎない存在。この主を、私の心に受け止めよう。その思いは決して、忘れてはならない。

(2016年07月24 週報より)

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