忘れてはならない事件

1958年(昭和33年)といえばまだ<シンチューグン>という言葉が日常生活の中で使われている時代だった。立川には米軍基地拡張をめぐって、現在の沖縄・辺野古の闘争そのものにも似た凄惨な機動隊との衝突―砂川闘争が終わったばかりだった。私の家があった府中にはアメリカ軍総司令部があって、朝晩米国国歌が周囲を圧するように響き渡っていた。中学生だった私はカーキ色の大型乗用車に5つ星のある司令官専用車を何度も見かけたことがあります。その年の9月9日西武新宿線下り飯能行き電車が、午後2時ごろ稲荷山公園駅付近を走行中、西武線を囲むように立地していたジョンソン基地(今は自衛隊入間航空基地)から一発の銃弾が撃ち込まれ、1両目に乗車していた武蔵野音大1年生の宮村祥之さん、当時21歳の背中を直撃し床に倒れこんだ。

他の乗客の知らせで電車は緊急停車し、宮村さんは隣のジョンソン基地にある病院に急搬送されたのですが、わずか1時間後午後3時に死亡が確認されたのです。この事件で米軍のMP(憲兵)が捜査したところ、同基地内勤務のピーター・ロングプリー3等空兵(当時19歳)が犯人であることが判明し、即米軍側が逮捕した。

逮捕されたロングプリーは「空砲で射撃の練習をしようと走行中の電車に向かって引き金を引いたが、実弾が入っているとは思っていなかった」と供述した。当初、米軍側は公務中の過失による出来事として片付けようとした。しかし、公務中とはいえ、いかんせん電車に向けて発砲したのは公務とは到底認められない、と苦しい見解を発表したのです。容疑者の身柄は埼玉県警狭山署に委ねられ9月15日、ロングプリーは重過失致死罪で浦和地裁に書類送検され、翌1959年5月11日ロングプリーに禁固10か月(!!!)の有罪判決が下されたのでした。9月29日ロングプリーが上訴権放棄の手続きをとったため刑はそのまま確定しました。

宮村祥之さんという方は熊本で母子家庭に育ち1955年に上京。夢であった音楽家を目指して武蔵野音大に通いながら、母親に迷惑をかけないようにバイトを見つけて頑張っておられました。死亡する直前に、母親あてに手紙で「バイトが見つかったから仕送りはしないでいいよ。」という優しい手紙を送った直後の出来事でした。実はそのアルバイトこそジョンソン基地内でのコントラバス演奏だったのです。この日はアルバイトの最終日で、日曜日の子供たちのための演奏会を終えて、帰宅の途上この悲劇に遭遇したのです。母親の悲しみと嘆きはどれほど深かったでしょう。

実は私たちの周りにも米軍基地がめぐっている。いったん事があれば、1958年も、2016年も変わるところはありません。日米安保条約は強化され、地位協定も日本国民が望む方向には少しも変わっていません。横田基地経由では多くの米軍関係者が入国します。成田空港と違うところは、日本の税関はなく、一切の荷物検査も検疫もないということだそうです。麻薬、ドラッグ、エイズは無制限で持ち込まれると聞いたことがあります。戦後、米軍人・軍属がらみの事件で少なく見積もっても1,600人以上の日本人が死亡しているといわれます。ドイツにも、イタリアにも米軍基地があります。けれどこんな屈辱的な、差別的な扱いはイタリア人、ドイツ人は決して容認してはいないと聞きます。日本人である限りいつ被害にあうかもしれない危険を背負わされているかもしれないのです。やがてウイドウ・メーカーといわれるオスプレイが横田基地に配備されるようです。軍備を強化するほど、戦争の危険は増す。日本の過去が物語ります。

(2016年10月30日 週報より)

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