ゆたかな交わりを望んで

わたしたちは様々な関係に生きてます。職場、地域社会、団地の自治会、家庭、親戚、そして教会。それぞれに生まれや育ちが異なるもの同士が、違った意見や立場を超えて、共に生きています。それら一つ一つのかかわりは、わたしたちの生活の基礎を造り上げているといえるほどに大切です。当然、性格や感覚の違いから、考え方は違ってくるものです。いかにそこに調和点を求めて、そこにとどまり続けるかが問われます。
ヤスクニ反対のデモをしている人々に、しばしば投げかけられる言葉は、<それならお前らは、日本から出てゆけ!>と言う罵声です。そこに粘り強くとどまって調和点を見出すかという努力と忍耐が最近少しうすれているような気がします。キリスト教会の中でも、つい<これが受け入れられないのなら、われわれの仲間ではない>とタンカを切りがちです。対立はできれば避けたいものです。しかし夫婦喧嘩のたびに、リコン、リコンと叫んでいたのでは、いくつ人生があっても、足りません。対立に耐えて、そこに踏みとどまる忍耐も必要です。

生まれたばかりで、パウロが活躍していた時代のキリスト教会は、決して理想の教会ではありませんでした。教会は深刻な対立を内包していました。教会がユダヤ教の一派として活動しているだけならユダヤ教からの迫害は起こりませんでした。迫害者たちはユダヤの伝統を守るペトロ、ヤコブの指導下にいたキリスト者達には手をつけませんでした。ユダヤ教の一派として行動して、神殿礼拝をし、律法を重んじてくれるなら、迫害の必要はないからです。
ところがギリシャ語を話すクリスチャン達は、別の視点に立ったのです。つまり教会が生まれ、新時代を迎えたにもかかわらず、神殿礼拝と律法を重んじるあり方は、福音を土台から覆してしまうものと考えたのです。それはユダヤ教側の怒りを招かずにはすまなかったのです。
エルサレムの迫害の結果、ヘレニストの中心人物であったステファノが殉教死し、その他の人々もエルサレムにとどまることができず地方に散らされていったのです。しかし、人々は散らされた先々で、伝道しました。散らされ、迫害されることで、キリスト教は大きな発展を遂げたのでした。やがて教会はアンティオキアに異邦人伝道の拠点になる教会を築き、エルサレム教会をはるかにしのぐ教会を作り上げたのでした。
しかし対立の構図が明らかになったと言うことは、分裂の危機でもありました。ユダヤ的伝統をどう考えるのか、異邦人伝道をどう受け止めるのか、教会はエルサレム会議を開催しました。アンティオキアからはバルナバとパウロが遣わされ、エルサレムの保守的な使徒たちと語り合うことになったのです。「激しい意見の対立と論争があった。」(使徒言行録15:2)と聖書が言うくらいですから、それは教会の分裂ぎりぎりの激論だったのです。しかし両者は決定的な決裂・そして分裂にはたち至らなかったのです。つまり、相手側にも同じ信仰が息づいていることを感じ取れたのです。なんと幸いなことだったでしょう。

このような状況でしばしば『こんなことをいう連中と同じ空気を吸うのも嫌気がさす。』などと、人は平気で言うものなのです。健全なこころのやわらかさを失わないことは、きわめて大切です。かつて克服できたこのしなやかな心が、いま薄れつつあることが現代の本当の危機であることを感じます。人間の交わりの中で危機は避けがたいものです。けれど危機をさらに深い交わりへと転換できるのか、あるいは崩壊に進んでしまうのか、交わりの質が問われるのは、現代の問題です。

(2009年05月24日 週報より)

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