聖なる神の前で

人によって様々な意見があることは知っていますが、個人的には21世紀のこの時代に王制や天皇制が存在することは奇異に感じています。日本でも英国でも、モナコでさえ王位継承の立場にある人々は判で押したようにとてもつらそうに見えます。英国では皇太子妃であったダイアナさんは、ついに愛人と切れることのなかった夫である皇太子と離婚し、そして悲劇的な事故死で生涯を閉じました。世界中の人々がその死に疑問を覚え、いまだに陰謀説がくすぶっています。
かつて、はつらつとした外交官だった日本の皇太子妃は心を病み、相貌はすっかり変わっています。モナコの皇太子は、愛人はいても結婚はしていないのだそうです。一見して羨望の眼で見られるこの立場の人々は、幸せとは遠い生活を強いられています。しかし頂点としての王という立場ができると、そこから無数の上下の関係が発生することになり、いわば様々な形を変えたミニ王政、ミニ天皇制が発生することになります。つまり様々な権力の構造が生まれことになり、これを利用しようという人々には都合のよい形が生まれるのです。

「下僕(しもべ)に徹して。」とか「公僕として。」などといいながら、人間はやはり君臨することが好きなのです。大きくても、小さくても何がしかの権力の座に着くと、しばしばたちまち癒着したり、腐敗したりするのです。だからでしょうか、イスラエルが最初に王制を選ぼうとしたときに預言者サムエルは口を尽くして王制の帰結するところを、神に代わって語ります。
<王は男たちを軍隊に、娘たちを宮廷に徴用する。人々の最上の畑を奪い、家臣たちに与える。税金を取り、国民を奴隷化する。やがて国民は自分が選んだ王のゆえに泣き叫ぶようになる。>(サムエル記上8:10 – 19)
その後イエスキリストは席次をめぐる権力争いを始める弟子達に、仕えること、僕に徹すること、十字架を負うことを繰り返して語りかけました。しかし歴史をたぐってみるとキリストの弟子であるべき司教、大司教たちは、巨大な権力をもとに君臨した長い歴史があります。

旧約聖書の中で最大の指導者はモーセといえます。申命記はこうして最終章を閉じます。『イスラエルには、再びモーセのような預言者は現れなかった。主が顔と顔とを合わせて彼を選び出されたのは、彼をエジプトの国に遣わして、ファラオとそのすべての家臣および全土に対してあらゆるしるしと奇跡を行わせるためであり、また、モーセが全イスラエルの目の前で、あらゆる大いなる恐るべき出来事を示すためであっ た。』(申命記34 : 10-12)

申命記はモーセの出エジプトに果たした大きな役割をたたえます。しかし、その当のモーセは、<出エジプト>を果たせても、約束の地に入ることは一歩も許されませんでした。それは約束の地の入り口に近いカデシュでの出来事でした。砂漠のような場所です。人々は水に渇いていました。人々は徒党を組んでモーセとアロンに逆らったのです。
「われわれをこんなひどい所で死なせるのか。ここにはイチジクも、ぶどうも、ざくろも、水すらない。」
神はモーセに言います。
「彼らの目の前で、岩に向って水を出せと命じなさい。」
その時、怒りで感情的になっていたモーセは例の杖を取って、二度岩にたたきつけたのです。そして岩からほとばしる水が出ました。しかし、神はモーセに言われます。それは「イスラエルの人々の前に、わたし(神)の聖なることを示さなかった。」(民数記20:12)そして厳かにモーセに、言い渡します。「あなたは約束の地に入れない。」そうして「主は 御自分の聖なることを示された。」(20:13)

感情に駆られて、やりすぎてしまうことが若いころからのモーセの弱点でした。ここにもそうした弱さがつい現れてしまったのでした。しかしモーセでさえも、弱さを併せ持つ存在でした。人間は与えられた責任を果たすべき存在です。しかし、他の人よりもなんらえらい者ではありません。ましてやそれらしく君臨してはならないのです。神の聖なるものであることをあらわすことこそ、大切なのです。人はあくまで弱く、破れに満ちた存在にすぎません。そのことを見つめて、聖なる神の前にひれ伏すことこそ、大切なのです。

(2007年04月15日 週報より)

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