聖霊がくだる

イエスキリストが復活して50日目のペンテコステ(五旬節)の日に、とつぜんイエスの弟子達に聖霊が下ったというのです。彼らは祈り続けていたのですから、何事かが起こることを期待していたのだろうと思います。彼らは、逮捕され捕縛され、十字架にかけられるイエスを見捨てて、蜘蛛の子を散らすように、逃げ出したのですから、一時はバラバラになっていました。
五旬節を前にエルサレムの1軒の家に集まっていました。いちおう結束は戻りつつあったのでしょう。でも精神的には打ちのめされていたはずです。何しろ主であるイエスを見捨て、自分さえ助かるなら、嘘もつくし、逃げ出しもすることを世間に暴露してしまったからです。自らが、日ごろは大言壮語しても、いざとなれば人間の弱さ、醜さを余すところなく顕わにしてしまう存在であることを知ったからです。
自分のことは自分で決着をつけるしかないのですが、じつは人は自分という存在が分かっていないのです。まさかこの自分が主を見捨てて逃げるなどと、事が起こる前は、弟子たちは考えもしなかったのです。でもその場になると、嘘八百と裏切り。・・・現代においても、そうして人は思いも寄らない不祥事の山を日々築きます。

その弟子達に聖霊が降りました。弟子たちはこころの底から変えられたというのです。弟子達に起こったことがどうしてわたしには起こらないのだ? そう感じる人もいるかもしれません。弟子たちはかれらの限界を凝視させられたのです。いざとなれば日ごろの聖人ぶりをかなぐり捨てて、主を見捨て、嘘をつき、自分ひとり助かればよい。自分でも思っていなかった自分が飛び出して、行動してしまう。聖人がほんものの自分なのか? 主を見捨てる自分がほんものなのか、それさえわからない。
極限状況に直面していなければ、何とでも言えるのかもしれません。弟子たちは主イエスの十字架に立ち会うことになって、そこで自分自身のむき出しの限界を見せられたのです。自分の問題性の深さに弟子たちはおののかされたことでしょう。神の何らかの業に期待する以外には、方途がない。彼らは必死で祈ったのです。祈れば何でもかんでも答えられるわけではありません。しかし神は自らの限界を知って悲しむ人の祈りを無視しないのです。神は人の求めを見極める方です。エゴイストはエゴイスティックな求めを、真実な人は真実な祈りをするのです。そして一方は退けられ、他方は求め以上の答を神は与えるのです。

ペンテコステに弟子たちが経験したのは圧倒する神の力でした。教会はすぐれたカリスマティックなリーダーの指導力で立てられるのではなく、財力を溜め込んで力をつけることによって、導かれるところでもないのです。ペンテコステは、人が神の力によって新しくされて、再出発がゆるされるところです。
この12人の弟子たちは、多くはガリラヤ出身の普通の人々に過ぎなかったのです。けれど聖霊が下ったときに、この12人の人々にを通して、世界は大きく変わろうとしていました。これから世界が変わろうとしていることは彼ら自身もまだ知らないことでした。神が、そう企図されたのです。神の手に委ねようと人が変えられるとき、大きな<CHANGE>が起こります。

(2009年05月31日 週報より)

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