投石
律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。
ヨハネ福音書8章3-5節
綺麗に化粧をした一人の女性が、絶え間ないカメラのフラッシュライトを浴びている。両脇には男性の弁護士が控えている。報道記者たちからは、時には本筋と関係のない「下司の勘繰り」としか言いようのない質問さえ容赦なくなされている。2000年の時を隔てて、既視感(デジャヴュ)そのものである。
「あなたは、どうお考えになりますか?」 What do you say?
当然のことながら、一人で姦通はできない。相手の男は、どうした? 取り囲む群衆も記者も、男たちばかりである。女性たちは、いったいどうしたのだろうか? 何をしているのだろうか? 家でひっそりと男たちの帰りを待っているのだろうか? それとも取り囲む男たちの遥か後方で、興味深く遠巻きに噂話に花を咲かせているのだろうか? 当然のことながら、律法学者たちやファリサイ派の人びとも男たちばかりである。何とか研究所もテレビに出てくるのは男たちばかりで、女性は一人だけだった。非難の仕方に、とがめだてをしている多数の男たちと引き立てられている一人の女性という構図に、心が痛む。それは非難している大多数が、自らを絶対的な安全圏に身を置いて一方的なとがめだてをしているからだ。有無を言わせない「絶対安全な正義」などあるのだろうか。そもそもかように事柄を単純に「悪」と「正」に区分できると考えること自体がおかしくないだろうか。
石を握りしめる群衆の背後には、絶対的な権威であるモーセ、そして律法が控えている。女性の側に立って、「そんなことはやめろ」とか「打ち殺すな」などと言えば、すぐさま律法遵守規定違反という石が飛んでくる。モーセの律法を詳細に検討して何とか抜け道を探して、「今回は殺さなくてもいいだろう。執行猶予付きにして、再犯の場合には…」などと言っても、大同小異、結局は同じことである。
「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」(7節)
権威を盾に、絶対的な弱者をとがめる自らの心を省みることのない群衆たち、週刊誌の読者たち。
ちなみに私は、画期的な発見そのもの(存在の有無)と、発見に至ると称する手続き上の不備・不正とは明確に区別して論じるべきという意見である。仮に存在が事実だとしても、彼女や彼女の共同研究者たちが犯した論文作成上の誤りが許されていいはずがない。国家的な大発見で、組織や国家に莫大な利益がもたらされようとそうでなかろうと、科学的なルールを逸脱した行為に関する責任は取らなければならない。悪意がなければ許されるというものではない。それほど学問というのは、厳しい世界なのである。
「これからは、もう罪を犯してはならない。」(11節)
フラッシュライトを浴びている背後に広がる闇、私たちの心にこそ、目を凝らさなければならないのではないか。
五十嵐 彰 (2014年05月11日 週報より)