問題の中で

現代の社会は他人には全く知られないで、人知れず悩む人、絶望している人々が多くいます。見知らぬ男女同士がインターネットで知り合い、一緒に自殺するという事件や、なお飽食の日本で、餓死したまま放置され、その後発見されると言うことが、時おり伝えられます。
忘れもしません、10年ほど前の出来事ですが、教会前の大栗川にかかる、300メートルほどの間隔でかけられている隣り合った二つの橋で、一週間をはさんで二人の人(おそらく五十代の人)が飛び込み自殺をはかったことがありました。五メートルほど下の川底は、大雨の後でもなければ、ろくに水かさもないのです。大量のニュースが飛びかう中で、この地域の人が誰も知らない二人の自殺は新聞種にもなりませんでした。教会前の橋に飛び込んだ中年女性は、わたしが見たところ70キロほどの体重があり、川から引き上げるのは、消防署のプロにしても大変難儀なことでした。なぜ死を急がねばならないのでしょう。途方もない多くの人々が、毎年死に急ぎます。そうした立場に追い込まれる人は、それぞれに違った事情を抱えていることでしょう。

わたしたちはお互いに、人生に期待をかけて生きてます。そこそこ能力があって、健康であって、見かけもこぎれいに、付き合いに不足のない程度の金銭的余裕があって、人からも一応信用されるような自分でありたい。そう願っています。でもそうした思いは、何か重大な病気でも抱え込んだら、すべてが崩れてしまうでしょう。げんにそうして期待した人生から、かなりのものを失ってしまったと感じている人は多いのです。『うまく行かないのが人生だと、思いなさい。』と、わけしり顔で言う人もいるかも知れません。
人生が自分の思い描いていたとおりに行くとは、わたしも思えません。今、ことがうまくいっている人も、明日何が起こるかは知らないのです。でも少なくとも、これで自分の人生は終りだとか、自分は全く無益で、この世では役立たず、この世にいても、いなくてもよい、無益な存在、と思うことはないのです。たしか山口百恵が歌った<いい日旅立ち>という歌に『どこかに、わたしを待ってる人がいる。』という歌詞がありました。安易にそうした期待を抱くことは危険ですが、、、聖書に目を転じると、99匹の羊を野においても、一匹の迷える羊を探し求める、羊飼いなる神の姿が主イエスによって語られます。そしてイエス自身は、正統的な宗教家や、ユダヤ教徒があやしむほどに、悩む人々、罪人、収税人、世の人々から無価値と思われていた人、不必要な存在とレッテルを貼られた人々、さらには娼婦たちまで、時には出向き、迎え入れ、歓迎し、極みまで愛されたのでした。
愛されることによってその人々は主イエスの弟子となりました。イエスを信じ、イエスに心いやされた人々は、「自分など無益な人間」などと思わなくなっていたのです。うまく行くばかりの人生など、やはりあり得ないでしょう。何もかもうまくいくと、人間はひどくごう慢になって、世界一友達のない、孤独な人間になっているかも知れません。この問題/あの問題につきあたったからこそ、わたしたちは主イエスの眼差しに気づくのです。・・・あなたを心待ちに待っているのは、イエス・キリストその人です。あなたは無益でも、孤独でもないのです。

(2005年02月06日 週報より)

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