生きることの困難さのなかで

わたしは、今週も、さまざまな人々と出会い、語り、人が生きることの多様な人生模様を見つめました。最近は、金銭的に窮迫すると言うよりは、むしろ人間関係や精神的に行き詰まりや破綻を覚え、生き悩む人が多いのです。かつてギャンブルで破滅寸前だった人が、見事に自分を取り戻して社会的に活躍している。六十歳をすぎても、全く自分の人生を肯定的に感じられず、慰めの言葉を聞きたくて一日に4度も5度も電話をかけてくる人。夜、10時近い時間に「今すぐ自分のところに駆けつけてほしい。」と電話してくる高齢者の方。IT企業をリタイアーしてから、昼間から酒瓶を手にして、路上でラッパ飲みするようになった元企業戦士。人は、なぜ悩み多い人生を歩まねばならないのだろうかと、つくづく思います。たぶん大半の人々は、支え手がいてくれるので、こうした危機を乗り越えています。理解ある身近な家族、親子がある人は幸いです。でもそうした人が近くにだれもいない人。あるいは、ほんとうは、支え手であるべき人が、そうすることに疲れてしまった時。支えているのに、ご本人が不十分だと感じていて、不満をつのらせている場合。問題が越えられなくなるのです。

聖書にも様々な親たちが登場します。イスラエル建国の父であった預言者サムエル。かつて幼かったサムエルを預かって養育、訓練した祭司エリ、そしてイスラエル王となったダビデ。聖書の記述によれば、これらイスラエルの基礎を造り上げた指導者たちの、いずれの子供たちも、ほとんど<無頼漢>同様の人物であることがわかります。国の指導はできても、親であることには失格なのです。子育てほど、親の生き方、人間としての真実さが反映される場はありません。無頼漢を育ててしまったイスラエルの指導者たちに内側には、自分でも気づかないある種の<無頼>が生きていたのです。無意識のうちに子供たちはそれを読み取って、内側に溜めていったのです。

国のリーダーではあっても、自らの子供のリーダーではありえなかった父親たちの姿は、3000年後の現代のわれわれの姿でもあります。『親は毅然とした模範者であって、神への信仰と権威を堂々と示すべきである。・・・』自らの実体とはかけ離れて、言葉でそういうことは簡単です。しかし聖書の中に登場する指導者の家庭の実態は、痛ましいほどに、寒々とした現実でした。こうしたことを通して、人間とはかくも自己中心的で、深い罪に捕らわれた存在であることを知らされるのです。少なくともこれらのイスラエルの指導者たちは、そうした罪への自覚と、神なしにはどうにも行きようのない人生のあり方にうめいていたに違いないとわたしは思います。
そこにこそ彼らがイスラエルの指導者として立てられた資質があります。ふつう、人は自分の事が見えないのです。ですから他人の罪について、無慈悲に非難して、「人はかくあるべし。」と言います。しかし、その分、彼が立派かどうかは別のことです。どうにも立派でありようもないわたし(たち)は、神にすがらざるを得ません。必死にすがるしかないのです。愛と許しの神に従いながら、自分の足りなさを見つめ、少しでも多く他人に寛容に生きることを、求めます。私は信仰なしでは一日も生きえない事を、あらためておぼえています。

(2007年05月06日 週報より)

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