懺悔(ざんげ)
人は驚くほど自分のことを知らない、といえるかもしれない。自分自身がどれほど罪深いのか、ことによると人を傷つけているのか、自分では知ろうとしないし、知りたくもない。ましてや自分の罪を認めて、告白し、許しを乞うということなど、めったに起こらない。ただ例外的に、目前に近づいた死を前に、犯してきた罪、不行跡を告白する老人がいないわけではない。それを聴いて受け入れることは、牧師の厳粛な務めでもある。
確かに人は人生を必死に生きて努力はする。仕事に存在をかける。ときに犯罪ぎりぎりのところまで頑張って、会社のため尽くす人も少なくないかもしれない。会社や官庁で反社会的なトラブルにかかわり、自殺までして事実の公表を阻む。なにかの事件が起こるたびにそうした人が出る。それは決して特別のことではない。死をもって会社や集団のために、仕える。事実はそうして隠蔽され、上司や共同体は事を切り抜けて行く。けれど実際そうした献身・忠誠で、死を受け入れることが出来るだろうか。人はだれでもいつか死ぬのだから、どのように死を迎え、どのように死を納得しうるかということこそ大切なのではないだろうか。
つまり人は、神の前に自分の人生の中で生起したことごとを納得して、満ち足りて、神の光の中で自分の人生を見つめなおすことができるのか。それが出来て初めて、迫り来る死を受け入れることができるのではないだろうか。そうであれば、狭い共同体のために、それも悪や不正を隠蔽するために死ぬなど、神がうけ入れられる生き方でないことはもちろんだ。家族にとっても、汚点を残して自分の夫や父親が死んだとなれば、心にどう折り合いをつけて、これからの人生を生きたらよいのか途方にくれることになる。
イタリアのカトリック教会で、告解室が一つの教会の中でいくつも、設置されています。人々は、そこで当然のように罪の告白をしているのです。確かにそれはカトリック教会の制度の中で、生まれ、育って、今があるといえます。告解を聴くことはカトリック司祭の神聖なつとめでしょうし、そのための訓練もしっかりと受けるのでしょう。
プロテスタント教会にそうした伝統はありません。日本人のあり方の中に、罪深い秘密を、死の向こうまで、抱え込んで、死んでいくという人は少なくないように感じます。神の光が人の隠された心の内奥にまで差し込むことを知らないからです。神は人が罪を告白する前に、人の心の奥底にあるものをご存知なのです。 これだけは絶対に話すことができないというものはない。神はマフィアの告白すら受け入れ、そしてお許しになる。
プロテスタント教会に懺悔室はない。でも礼拝は懺悔と告白の場でもあります。声には出さないけれど、私たちは深い懺悔を神に言い表すことができる。信仰の深さは大向こうをうならせる雄弁な祈りや説教ではありません。懺悔の深さこそ、信仰の深さです。「罪の増し加わったところには、めぐみもますます満ち溢れた。」(ロマ5 : 20)
この一見逆説に思われるパウロの言葉の中に、信仰の事実がこめられている。他人の罪をあげつらう前に、自分の心を見つめたい。そして深い懺悔にたちたい。ファリサイ的な義人の心にたち続けると、いつの間にか、見えているつもりで、じつは何も見えなくなる、ということが起こる。
(2007年11月11日 週報より)