私たちのイエス・イメージは?

私たちは、聖書の中のイエスを最初から最後まで「神の子」として観ている。当然のように。馬小屋で生まれ、様々な不思議な業や癒しを行い、福音を宣べ伝え、最後は十字架にかかり、3日後に甦り、昇天された方として。しかし当時イエスの周りに居た大多数の人々にとっては、新たに現われたちょっと変わった預言者か教師ぐらいにしか思っていなかったのではないか。

意味のない些細なことまで律法化して、人間らしい生活をがんじがらめにしてしまった掟(おきて)をてんで意に介さず「破戒」を繰り返すイエスは、治安維持を旨とする体制側の人々にとって、目の上のたんこぶどころか自らが築き上げてきた秩序や地位を脅かす危険人物以外の何者でもなかった。イエスが当時の被差別者である徴税人や病人・障碍者と共にいるだけで大酒のみのアル中とけなして「ネガティブ・キャンペーン」を繰り広げる(マタイ11 : 19)。

普通の市民たちにとっても、イエスの癒しのわざが容易には信じられない。ある人は、悪魔の力を借りているという知識人の誹謗中傷を鵜呑みにし、また自らが理解不能なことについては、狂気によるものとしてとりあえず安心しようとする(マルコ3 : 21)。

それではイエスを昔から知っていた身近な人々は、どうであっただろうか。かつてのイエスの有様を知っているからこそ、幼馴染あるいはイエスの成長を見守っていた近所の人々は、「あのイエスが・・・」とこれまた理解できない(マルコ6 : 3)。

そうした先入観も利害関係もない人々ですら、せいぜい歴史上の人物を引き合いに出して、その再来であるとするのが精一杯であった(マルコ8 : 28)。

当時の人々が示したイエスの人物像は、体制転覆を目論むテロリスト、単なる酔っ払い、悪魔に取り付かれた狂人から、ただの大工そして有名人の甦りまで様々である。こうした幅の広い、言い換えれば人によって評価が全く異なる印象を増幅させた一因が、イエスの言動、特にその通常の理解を超えた応答だったと思われる。

例えば、ある人が「あなたは優秀ですね。頭はいいし、仕事は出来るし、非の打ち所がない、完璧な人だ。」と言い寄ってきたら、いったい何と答えるだろうか。「いやいや、それほどでも・・・」とはにかんだように手を振るだろうか。それとも「これでも若い頃は苦労しましてね。」と昔の苦労話をするのだろうか。あるいは何かあるなと警戒心を笑顔の下に押し隠し、愛想笑いをするだろうか。ほめ殺しだか追従だか を言う方も、相手の反応として想定しているのは、せいぜいこの程度であろう。ところが、帰ってきた答えは、想定外も想定外。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」(ヨハネ3 : 3)

常軌を逸しているとは、このような答えを言うのだろう。その場を取り繕おうとか今後の友好関係を維持しようとか一切関係なし。普段は社会的地位もあり人々から一目おかれているような人が言葉に詰まり呆然としている、何とか自分を立て直してすこしでもまともな 反応をしなければと必死になって頭を働かせている状況がありありと目に浮かぶ。人がどのような思いで、どのような目的をもって自分に話しかけてくるのか、その全てを一瞬にして見抜き、その人にとって一番大切なこと、一番欠けていること、急所をズバリと端的に突く。その切れ味の鋭さに、いつも何度読み返しても感心してしまう。

五十嵐 彰 (2007年11月04日 週報より)

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