悩み多い日々の中で

最近つくづくと思うのは、人はそれぞれに生の苦しみや痛みを持っているということです。使徒パウロはただならぬ深い信仰経験を重ねた人ですが、その一つが<第三の天にまで引き上げられた>経験でした。パウロはそれをパラダイス『楽園の』の経験と言い変えています。楽園とは「人が口にするのを許されない、言い表し得ない言葉を耳にしたのだ」そうです(12:4)。きっとそれは我を忘れるような恍惚的な経験とでもいうようなものであったでしょう。

けれどそこでパウロは言葉を続けます。「あの啓示されたことがあまりにも素晴らしいから…そのために思い上がることがないようにと、私の身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛みつけるためにサタンから送られた使いです。」
パウロには肉体の棘がありました。彼はそれを公表してはばかりません。学者はそれを<転換>とか<悪質な眼病>と想像します。パウロは人を驚かせるような深い宗教経験を語りながら、同時に、時に人がひたすらに隠す自分の弱さをあらわにします。そこにこそパウロの人間としての偉大さが光ります。

えてして平凡な人間が大きな宗教的な経験に導かれると、謙遜さを失うことがあります。けれどそれが本当に宗教経験ならパウロのように自らの弱さを語り得ることにつながります。「すると主は私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ、十分に発揮されるのだ。」(12:9)という深い告白が語られます。

しばしば宗教経験はそれを与えたのが神であることを忘れ自分の特別な持ち物のような人に誇り、そうでない人を下に見たり、「恍惚的になって異言を語らなければ、真の信仰者とは言えない」とする異言派の人々の言い方は、時に気になります。人間の本当の姿は弱さと醜さを、表面の美しさの中に秘めているものです。使徒パウロはとげが取り去られるように三度祈ったのです。<3度>とは文字通りの3ではなく、完全数としての3度。何度も、何度も祈ったということだそうです。でも神の答えは「すると主は私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ、十分に発揮されるのだ。」(12:9)ということでした。もしパウロが全く弱さを持たず、優秀な頭脳、抜群の行動力、教会史上最大の宣教者、そして健康そのものであったらあれほど人の心を打つ言葉を語り得なかったかもしれない。

神はパウロを弱点のない、欠点のない、完全な人間とはされませんでした。弱いままの彼、パウロ自身も、神の前には弱さを隠して強く見せる必要もありませんでした。私たちも、自らの弱さを神の前ではさらけ出して、弱さの中でこそ働いてくださる神の愛に安らいで、この信仰の道を歩んでゆけるのです。

(2014年07月27日 週報より)

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