登場人物―神は心を見る

2週間前に、例年のように劇作家の高谷信之さんからお招きをいただいて、劇団ギルドによるオリジナル公演「十二双川物語」を池袋の小劇場で見せていただきました。高谷信之さんはNHKの「中学生日記」などの脚本も書かれた、数々の賞をえた大変すぐれた脚本家です。30人も入ればぎっしり満員になってしまうような小劇場演劇は日常生活を犠牲にしてこれに打ち込む名もない役者さんたちの演劇にかける必死さが投影する場で、毎年とても楽しみにしているのです。しかも今年の演目は、高谷さんの幼い頃の家庭が舞台です。聖書学院の構内に住んで、メンテナンスの仕事をされていた高谷さん一家を一時、見知っていたこともあり、わたしの記憶にある高谷さんの御両親と、子どもである信之さんから見えていたご両親との距離感がとても面白いものがありました。

さて聖書にも様々な職業、階層の人々が登場します。官僚、王、宗教家、商人、そして物ごい、さらには娼婦まで。人々の目にはそれなりの格付けがあり、追うにはかしづき、物ごいにはさげすみ人は社会的な地位や財産にもとづいて人々を判断する視線に行きます。

聖書はそうした常識的な見方がいかに間違ったものであるか課を語りながら、しかしながらそうした見方から人が飛躍できないことを語ります。紀元前1000年頃、イスラエルで民の要求をきっかけに王制が生まれたのです。王として立てられたのはサウルという名の青年でした。

「美しい若者で、彼の美しさに及ぶものはイスラエルにはだれもいなかった。民のだれよりも肩から上の分だけ背が高かった。」

サムエル記上9:2

アメリカの大統領選挙でも容姿は大切な用件だといわれたりします。イスラエルの人々がサウルを選んだ理由はよく分かります。しかし人は権力の座に着くと、人が変わるといわれます。王、大統領、首相はそうした変節を遂げない人を選ぶべきでしょうが、それを見抜くことが国民の役割といえます。
選ばれたサウルはたちまち心変わりをします。彼は以前の謙遜さ、謙虚さをかなぐり捨てます。高ぶり、不遜、高慢におぼれるのです。無論神にも、国民にも捨てられるのです。神は選びますが、選びを実現するのは本人の努力でもあるのです。逆に若いときに一方的に暴行されていた同胞を助けようと、エジプト人を殴り殺してしまった愚かなモーセを、80歳を過ぎて隠れ住んでいた砂漠から引き出して出エジプトの大業に召されたのも神でした。かと思えば若すぎて経験も自信もないエレミヤを選んだのも、神です。

やがてサウルが王として全く堕落したときに、預言者でありキングメーカーと指名されたサムエルは今度こそふさわしい人を選ばねばとエッサイ家をたずね「この人」と白羽の矢を立てたのはエリアブなる若者でした。しかしそのとき神の言葉が響きます。

「顔かたちや身のたけを見てはならない。わたしはすでにその人を捨てた。わたしが見るところは人とは異なる。人は外の顔かたちを見、主は心を見る。」

サムエル記上16:7

教会は神の働く場です。神はこの世において無きに等しいもの、弱いもの、自らの限界を自覚する人、謙虚な人、謙遜な人を選ぶのです。神に選ばれてわたしたちの今があります。神の選びを生きる謙遜さが、人を生かすのです。

(2009年07月26日 週報より)

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