愛と祈りに生きて

1982年の事です。私が足繁くお見舞いに行っていた立川の病院で二人の高齢者がひっそりと天に召されました。一人は私が教会に行きはじめて間もない頃から知っていたAさんです。この方は、激動の昭和史の中で崩壊してしまった戦前の由木教会で信徒伝道者をしていた方でした。終戦後、食べるためにAさんは府中の大国魂神社近くで小料理屋さんをしながら、心のなかで由木教会の再生を祈りつつ、できたばかりの府中教会に集いはじめたのです。そこにやがて将来、由木教会で伝道することになる、はたち過ぎの私が、説教に心動かされ、聖書の世界に魅入られるように、教会生活を始めていました。このドラマのシナリオは神様でしか書くことが出来ないでしょう。

やがてAさんは小さな自宅を、教会堂ができるまで礼拝に提供するなど、最晩年になって、かつて失った日々を取りかえすように、献身的に教会に仕えてくださいました。やがてこの方は心臓を病みました。時が過ぎ、由木教会の歩みがスタートし、Aさんは由木教会の再生をことのほか喜んでくださいました。80才をすぎて、Aさんは多摩の老人ホームに入所なさいました。まだ幼かった百合香と進をともなって何度もお訪ねすると、その度ごとに入所者の高齢者の方々が喜んでくださり、山のようにお菓子をいただいたりしました。しかし施設も、食事も豪華なホームでしたが、かんじんの老人を扱う扱い方には、介護職員によって差があったようです。Aさんがお風呂に入れていただいた時、お湯が身体に注がれているはずが、冷水になって、心臓をやんでいたAさんは「つめたい」と訴えたが聞いてもらえなかったのです。彼女はそのまま心臓発作を起こして、立川の病院に緊急入院となりました。

数日して、Aさんのとなりのベッドに入院してきたのが70才を越したMさんでした。彼女は夫を通してうつされた梅毒菌が全身にまわって、Aさんの言葉によれば<手足は腐れ果て、かろうじて切断をまぬかれている状態>でした。なんとも気の毒な人生と言うほかはありません。そして身体以上に、心は病んでいました。自分の生い立ちを呪い、夫を憎み、幸福そうに生きている周囲のすべての人生を恨むしか、生きるすべはなかったのです。Aさんの伝道者としての最後の働きが始まりました。となりのベッドに移されたこの悲惨な女性のために必死に祈り始めたのです。やさしい言葉を投げかけ、お菓子やおいしいものがあれば分けてあげました。しかしいつも返ってくるのは野獣のような言葉だけでした。このひとは他人からやさしくされた経験がなかったかも知れません。どう対応してよいか分からずにいたのかも知れません。長年悲惨な環境におかれた老人が、一挙に優しさを取り戻すことなど不可能にちかいことです。でもAさんは必死に祈りました。そして返ってくる怒りと憎悪の二倍の愛を、AさんはMさんに注いだのです。そして、やがて、Mさんの心が変えられる日が来たのです。Mさんはキリストを信じる決心をしたのです。Aさんは和装用の美しい草履をMさんにプレゼントして、こう言いました。「Mさん、これは私が教会に行くためにとってある草履です。これを差し上げます。これを履いて、あなたは天国に行くのですよ。」「もったいない。履かせていただきます。」その二日後に、Mさんは地上の人生を終えたのです。これは私がAさんから直接伺った真実のストーリーです。人生の最終点でMさんは真の愛を知ったのです。けわしい憎悪と、呪に駆られていた彼女の顔は、平安と感謝の表情に変わったのです。

しかしこのことが起こって、数週間後にAさんも、地上の生涯を終えたのでした。隣のMさんの事は放っておいて、自らの治療に専念すれば、もしかしたら、Aさんは無事退院できたかもしれない。でもAさんは、わがことのようにMさんを同情し、いたわり、愛し、祈ったのです。信仰は私的な言葉遊びの世界ではありません。病で痛めつけられたMさんは、キリストに復活の身体を与えられて天国にのぼったのです。信仰を生きることは社会の一隅を照らすことです。そうでなければならない。その一点は重大な違いになります。

(2006年03月12日 週報より)

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