正義

人はどこまで正しいのだろう。確かに正義は実現されないと困る。正義が勝ち、悪が正されるのは快感で、水戸黄門や西部劇が面白いと感じられるのは、正邪の立場が明確で、最後に、正義が勝つからです。しかし現実には、正義と悪の立場は簡単に黒白がつかない。時には権力者が自らの立場を正義として社会的に弱い人々が犠牲になることがあります。

かつて次のような出来事がありました。
下柚木に住む初老のトラック運転手の方でした。鉄材をトラックに積み込む作業で、会社の命令で建築用資材を大量に積み込みこんでいたのです。突然、崩れ始めた鉄材はなだれのように彼の膝に積み重なって、膝から下はひどい複雑骨折を負ったのです。「果たして元の職場に戻れるかどうか分からない。」彼はとても心配していました。そして意外な話を聞くことになったのです。彼は言いました。
「社長が言うには、労災を使われると、会社がやっていけなくなる。自分でトラックから落ちたことにしてくれと言われた。」
本人のミスなら、会社のほうはまったく損をしないですむのです。彼は社長の指示通り<彼自身の責任で>療養生活をしたのです。その後、この方がどうなったかは知りません。ただ、世間知らずのわたしなどには承服しがたい出来事は形を変えてありうるのです。

色川大吉さんという作家が「わたしの昭和史」という本の中で、戦争末期の八王子空襲について述べています。終戦近い1945年8月1日、米軍はB29爆撃機169機を投入し67万発の焼夷弾を、八王子の市街地に投下したのだそうです。市街地の80%は瓦礫と化して、2,900人以上の人々が亡くなったのでした。このときに焼け出された人々をもっとも勇敢に助け出したのは八王子遊郭の女性達だったのだそうです。彼女らは家族の経済的苦境を助けるために売られてきた犠牲者でした。痛み多いつらい人生を歩んでいた彼女達が、重い火傷に苦しむ人々を進んで助けたのだそうです。ところが・・・戦後この女性達は日本政府によって、進駐軍のための慰安婦として全員が、再び狩り出されたというのです。

かつてはマルクシズムこそ庶民、労働者、底辺の人々を救う、と私を含む若者達は夢見たものです。しかし、後になってそうした国家の指導者達は中世の王侯貴族も目をむくような贅沢をしていたことが判明しました。結局は人間が変えられなければ、権力者は正義の名の下に悪事を働きますし、格差は広がりゆくばかりなのです。われわれも含め人間の正義感など、怪しいものです。
アダムとエバ、カインとアベル。次々と展開される聖書の出来事はまさしく罪にしか生き得ない人間存在のありようです。痛みを負う人々の友であろうと願い、悩み多き人々の助け手であろうと願っても、なしうることは彼らを理解するところにも到達できない自分自身を見出すのです。
もし一縷の希望を見出そうとするなら、やはりキリストに目を注ぐことです。イエスこそもっとも弱い人、社会の底辺に苦しむ人、うち捨てられた女性にあたたかい視線をむけて、そのために命を注ぎだしたからです。言葉(遊び)でしかないキリスト教でなく、キリストの命に生きるあゆみをと願っています。

(2008年01月13日 週報より)

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