出で立つ心

1月4日の朝日新聞のコラム「素粒子」に次のような文章がありました。
『このコラムを担当するにあたり、三が日をホームレスの人たちと過ごした。昼間は越冬炊き出しを手伝い、夜は路上に寝る。××冷凍庫の中に横たわっているようだった。夜明けの気温2度。見れば東南の空に煌々(こうこう)と月。あちこちのダンボールから咳がやまない。××・・・』

2008年の世界は、さまざまな課題にかこまれてすべての人々がスタートしたといえます。環境問題、憲法、貧困、経済の行く末、心の問題、教育・いじめなど等・・・・。身近のことです。教会は20年前に会堂建設をしたときに、給湯と暖房は当時もっとも低コストの石油を使う設備を考えました。ところが昨年末、セルフ給油のスタンドで灯油を購入したところリッター当たり約100円でした。数年前なら100リッターで万札を入れると千円札が3-4枚戻ってきたのに、今ではまったく戻り無しになってしまいました。新聞では原油の上昇は、まだまだ続くと書かれています。以来、我が家では基本的に室温は18度にして、灯油の節約を図って新年を迎えました。車の使用も以前に較べると3分の1以下に減っています。節約に加え環境への小さな努力のつもりです。

自分自身に言い聞かせて、ささやかでも<出で立つ>ことが大切な時代に入ったのでしょうか。何事にも神の語りかけを聞くことが出来ます。そこにとどまったまま昨日と同じ生き方をし続けるのか、あるいは新たな明日に向って歩き始めるのか、小さな変革でも、長い年月の間には大きな違いを生み出すことが出来るかもしれない。
かつてアブラハムは神の促しにしたがって出で立ったのでした。生活の安定だけが人生のすべてであれば、裕福だったアブラハムが出で立つはずはなかったでしょう。とはいえ今カネさえあれば、力さえあれば何もかも安泰という考えは正しくないでしょう。アブラハムも故郷のウルやハランに留まりつづけたら、うまくいって小金を持った老人として、歴史のかなたに憶えられる筈もなく消えていったことでしょう。

神の声にしたがってカナンに向かったことで、彼は人間としての弱さや破綻を後世の人々に曝すことになりました。でも、だからこそアブラハムは後世の人間に役立つことが出来た。
いかに人間存在が弱さと破れだらけなのか。
弱さや破れがあったら生きていく資格がないのか?
真理は逆だと思います。神は、人間が自ら引き込んだ危機の中で、人間の不実にもかかわらず、いかに恵み深いかを、アブラハムを通して現されたのです。弱さ、破れがあるからこそ、人は神に心向けることが出来るのです。神を信じることは時には富や財産を失うことがあるかもしれません。(その逆はないと思います。ご利益主義は拝金主義の変形です。) 神を信じることはウルやハランでの富や財産とは比べることの出来ない確かさに生きることにつながるのです。
だからこそ、少々の財産を惜しんで神への冒険に踏みきらずに人生を終えてしまうのか、一歩足を踏み出すのか。それは人生を左右するほどのものなのです。アブラハムならずともそれは形を変え、われわれも神から問われるのです。わたしたちもハランに踏みとどまるのか、カナンへの信仰の旅に踏み切るのか、問われます。ささやかな事柄でも、出で立つことがあってもいいし、年の初めでもあります。他人の目には小さく見えることであっても、出で立つこころを神は祝福されます。

(2008年01月06日 週報より)

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