年齢をかさねる幸せ

誰でも年齢を重ねます。それは進歩であり、成長であり、発展であると同時に、挫折と悲しみと、裏切りや堕落そのものでさえありうることです。人生の光と影は、生きることの表裏をなし、光り輝けば、その光の強さの分だけ、影も色濃く残るのかもしれません。
最近私にとってとても近い存在の人が、認知症をわずらい、家族が驚くほど病気が進んでいることを知りました。彼はまちがいなく人生の最終のステージに立ち始めたのです。しかし多分、本人はそのことを全く理解してはいないでしょう。人はやがて終わりを迎える存在です。そうでない人は誰一人いないのです。

この世的に言えば、私も今年65歳を迎えるのですから、心は成長し損ねて青春時代、と無理して言ってみても・・・間違いなく<前期高齢者>の仲間入りなのです。つまり人生の段階は最終ステージにさしかかろうとしていると言えるかもしれないのです。
終わってみれば神様にも、皆様にもお役に立つことができずに、否むしろ御迷惑をおかけして、最終幕の幕引きと言う事にもなりかねない危険な段階かもしれません。とはいえ神のはからいでここ由木に移り住んで、私は由木教会をとおして数多くのすばらしい人々と出会ってきました。それは数え切れないほどの人々です。
私は心から満ち足りています。同時に、私の人生の幕は、まだ下りていませんし、これからどう生きていくかこそ、わたしの人生を決めていくことでしょうから、もっとも大切な部分をこれから生きていくのです。(ただ、これは私だけでなく、これを読むすべての人々も共通のことです。)

創世記に登場するヤコブの晩年に興味があります。若いときから父イサクや兄のエソウを騙し、おとしいれ、同時にそれゆえに叔父のラバンから騙され、自らのエゴを刈り取るような形で生きてきたヤコブは、4人の女性から13人の子供たちが生まれます。きわめてエゴイスティックだったヤコブから生まれた、母親が異なる子ども達は、このケースにおいては家族としての一体感はなく、ヨセフとベニアミンを除けば、兄弟を金のため奴隷に売ったり、嫁を売春婦と見間違えて関係を持つという愚かな行為に陥る(4男・ユダ)不道徳な存在でもあったのです。
やがて奴隷としてエジプトに売られたヨセフの手で、家族が再生し、兄弟たちがかつて行ったことを深く悔い改めて、父ヤコブは、神にイスラエルと改名させられ、不道徳極まる12人の兄弟たちは、やがて選民イスラエルの12氏族として民族の父祖となっていくのです。神の民としての資格など片鱗もない人々が、それゆえに神の民として恵みとしてそうなることが許されます。

ヤコブは最晩年にエジプト王・ファラオと面会します。彼は言います。
「私の旅路の年月は百三十年です。私の生涯の年月は短く、苦しみ多く、わたしたちの先祖たちの生涯や旅路の年月には及びません。」
そう言ってヤコブはファラオを祝福したと書かれています。(創世記47:7)さぞ苦しみ多い人生だっただろうとはたしかに了解できます。しかしそれもそのかなりは自分で蒔いた種を刈り取ったという一面は否定できないのです。挫折と悲しみと、裏切りとエゴはヤコブの人柄と切り離すことができません。
しかし同時に生涯を通してヤコブが求め続けたのは<信仰>でした。神を求め続けたことが最終的には、ヤクザな子ども達を選民にまで導いたのでした。失敗多い人生であることを深く自覚すると共に、並ぶものもいない世界の権力者エジプト王ファラオの前に出てさえも、王を祝福できる存在でありえたのです。
食料を求めてきた難民一家の老人から祝福を受けるエジプト王の謙遜も偉大ですが、当然のように祝福するヤコブは、恥じ多き生涯を救う神のはかりしれない力への確信に満ち溢れているのです。

影の部分のない人生などありえないでしょう。光と影は表裏一体なのです。だから生きることが無意味になるのではありません。だからこそ神を見上げねばなりませんし、だからこそエジプト王をすら祝福してあげなければならないのです。成功者だから、偉大な人生を歩んだから祝福できるわけではありません。影ある人生を歩んだからこそ、信仰の必要を深く知ることができたのです。過去の影を、信仰へのステップにする。ヤコブの歩みは、わたしたちを鼓舞します。

(2009年02月15日 週報より)

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