初心に帰る

私たち夫婦は、この4月で結婚40年を迎えました。由木教会しか知らない牧師。今も、井の中の蛙(かわず)に過ぎない私たちのようなものを、教会員の皆さんはよく忍耐してくださったもので、なんとお礼を申し上げたらよいのやら、適切な言葉が見つかりません。ごく初期の時には会衆なしの礼拝を持ったことがあります。そこからわれわれ牧師夫婦の歩みがスタートしたのです。しかし牧師としての歩み、その生活はたどたどしくも、心はずむ喜びの毎日を過ごしてきたことになります。教会は職場であり、家庭であり、子育ての場で、夫婦はいつも顔を突き合わせて歩んできました。

忘れられない経験もたくさんしてきました。一つ一つのエピソードを上げれば一冊の本が書けるはずでしょうが、それは私の心にしまっておくことにしましょう。ただ一つだけあげると次のような事件があったことです。ある朝、1歳を過ぎたばかりの百合香を抱いて、窓の外を見つめていると教会の敷地内に一台のトラックがスピードを落として入ってきたのです。ほどなく停止するだろうと思っていたその車が、入り口の大きなコンクリートの土管をつぶしても、なお止まらずもう一つの踏み台にしていたU字溝にぶつかり、車は窓ガラスを揺らしてやっと停止したのです。運転手の方は、運転中に心臓発作を起こし、私が車の運転席側のドアを開けると、私の目を見ながら、最後をむかえたのでした。体格の良い、魚屋さんとのことでした。信じられないほどの警察車両と消防車両が集結したことを覚えています。翌日悲しみにくれた夫人があいさつに見えました。

引っ越しや逝去でお別れしなければならなかった人々も数多くいますが、ともかく多くの方々と信仰を共にしたのです。やむなく由木から別の場所に移った人々とも、心つながれている多くの人々がいます。本当に数えきれない多くの方々と出会い、そして今、由木教会員となっている信仰の仲間たちと教会生活を共にしています。

信仰生活も、結婚生活もどこかでつながっています。カトリック教会では洗礼や聖餐とともに7つの秘跡の中に、結婚が挙げられています。神のご介在があって、人は異性と出会います。出会いを自ら受け入れ、心に決めて夫婦となりますが、それを維持するためには神のみちびきとその導きに従う信仰とともに、お互いを受け入れあう思いとそれを伝える優しい言葉が欠かせないように思います。わたしはいまだに上手にできないでいますが。

思えばかつて由木には「祈りの家教会」と私たちの教会しかありませんでした。ルーツをたどればひとつの教会でした。しかし今は、ずいぶんたくさんの教会が生まれました。少々乱立気味です。しかしそれでも由木教会には際立った特徴をもっているように思います。つまりエキュメカル一致への思いと礼拝で十戒を唱え毎週「殺してはならない」と平和への思いを表明していることです。家庭の平和こそ、世界平和の基礎ではないでしょうか。そしてそれは揺らぐことのない、神への信仰なしには実現不可能です。シュヴァイツァーもマザーテレサもネルソン・マンデラもその平和貢献とキリスト教信仰は重なっています。
礼拝で心を養う → 家庭が安らぎと愛にあふれる → 世界が平和に満たされる。
人が信仰の初心に立てば、世界が変わるのです。

(2014年04月06日 週報より)

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