徒労の中で

人生は報いられることばかりではない。いな、報いられないことの連続こそ、人生というべきかもしれない。旧約聖書の<コヘレトの言葉>にはむなしいという言葉が何度も繰り返される。
「なんという空しさ。すべては空しい。」(1:2)
「わたしは太陽の下に起こることをすべて見極めたが、見よ、どれもむなしく風を追うようなことであった。」(1:14)
コヘレトはある伝道者であり、知恵者でもあった。ソロモン王の言葉ともある。贅沢に食い、贅沢に楽しむことこそ人生に極みとと望む人は少なくない。じつはこのコヘレトなる人物はそれができ、一度はそうしてみた。『エルサレムに住む誰よりも牛や羊を持ち、金銀を蓄え多くの側女を置いた』。しかしそれでも人間の空しさから逃れることはできなかった。宝くじ1億円が当たったらと夢見た人が言にあたってしまった。しかしお金の配分でもめて不幸が訪れた、という話は珍しくないらしい。コヘレトは贅の限りを追求したのち、神を信じることを勧める。

新約聖書では、パウロが「無駄」という言葉で、空しさを語る。人はふと、自分が生きたことが無駄ではなかったかと思うことはないだろうか。そう思う瞬間があったからこそパウロは<無駄>という言葉を連発する。「自分が走ったことが無駄…労したことも無駄」(フィリピ2:16) しかし結論的にこういいなおす。「主に結ばれているならば自分たちの労苦が決して無駄にならないことを、あなた方は知っているはずです。(1コリント15:58)

パウロの伝道は、決して成功から成功へというものではなかった。うまくいきかけたかと思うと、迫害の手がすぐに伸びてきたり、邪魔が入る。逃げ落ちるように、次の場所に追い立てられる。そうした中で耐えられなくなって信仰から落ちてゆく仲間が出てしまうことは避けがたい。
「デマスはこの世を愛し、私を捨ててテサロニケに行ってしまい・・・」(2テモテ4:10)といわれているパウロの同労者がいる。パウロの伝道旅行にも同行し、いくつかのパウロの書簡にもパウロと共に名前が挙げられている伝道者。デマスがパウロを見捨て、つまりは信仰を捨てて、去った時、パウロは深い失望を覚えただろう。同時にデマス自身が伝道者として築いてきた人生と内面を全否定することになったのだから、そこには深い絶望が去来しただろう。それは簡単に否定し、振り切れるような問題ではなかった。

パウロという空前絶後の宣教者にしても、その現実は無駄・絶望・徒労の連続であったのだろう。
「主に結ばれているならば自分たちの労苦が決して無駄にならない」
パウロはそう確信していた。宣教とは主の業という確信がそれを支えるのではないか。誰かがキリスト者となる。それが何人か、何十人か。それは<主の業>であって、伝道者の説得力や、弁舌であってはならない。たしかに結果が出ないよりは、結果を出さなければならない。一桁より二ケタの方がいいに決まっている。しかし他人の評価や、他人の目を気にしての生きかたは空しさにつながるだろう。<主に結ばれている>とどこまでも信じる。伝道者の道に限らず、この確信があるかどうかで、人生のありさまは大きく変わってくるだろう。これは人が生きてゆく上の土台のようなものということができるかもしれない。もしこの確信に立てないとなると、人生は悲惨しか見えなくなるかもしれない。

(2014年06月15日 週報より)

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