西武池袋線のエリナー・リグビー
最近、朝の通勤時に一人の老女を見かけることがある。彼女をビートルズの曲にちなんで「エリナー・リグビー」と名付けている。池袋発の下り列車なので、それほど混んでいるわけではないのだが、出発間際になれば座席はそれなりに埋まっていることが多い。ところが、その女性の周りだけは、なぜか誰も座らずぽっかりと空いている。席を求めて駆け込んできた人は、そうした空席を見つめてホッとして腰かけるのだが、しばらくすると周りを見回しながら他の車両に立ち去ってしまう。女性の外見は頭にバンダナのようなものを巻き、カバンや紙袋類を7つほど抱えている以外に全く普通なのだが、そう、その臭いである。私も、隣りはおろか正面に腰掛けることすら躊躇してしまう。斜め前に座るのが精一杯である。
文字や写真で伝わらないのが、臭いである。2000年前のパレスチナで「汚れた霊に取りつかれた男」や「らい病を患っている人々」がどれほどの臭いを放っていたか聖書は記していないが、私たちの想像以上であろうことは容易に想像できる。ところがイエスはそうした人たちの間にずんずん入っていく。少しもためらうことなく。「斜め前」や「少し離れて」ではなく、「触れあう」のである。その「すごさ」に、私たちは殆ど気付かない。
キリスト教系のNPOを通じて支援している子どもに会いに、10日ほどネパールに行ってきた。バンコク経由でカトマンズまで待ち時間も含めて15時間。そこから更に国内線で1時間弱の地方空港からの交通手段は、3,000m級の峠を越える徒歩のみおよそ10時間。目的地の村は、深い谷間の斜面一面に段々畑が作られている山中である。水は上流の川の水をパイプで引いてくる。電気は最近ようやくついたが、1日の半分は停電している。炊事は、基本的に薪である。朝は鶏の声で5時頃に起こされ、うとうとしていても階下の炊事場で火を焚きだすと、2階の部屋は煙が充満してとても寝てられない。一番大変なのは、トイレである。家の外にある掘立小屋のような建物にトイレット・ペーパーを片手に入る。夜は懐中電灯で照らしながらである。そこには和式の小さな便器が設置してあり、横に置いてあるバケツの水をコップで流す「手動水洗」である。ある所では、平たい石が4つ組んであるだけである。お風呂など当然入れない。天気の良い昼間に村の真ん中にある共同水道で頭を洗う。蛇口をひねれば、当たり前のように温かい水が出てくるということが、いかに有難いことかを痛感する。ウオッシュレットやセンサー式自動洗浄あるいは濡れた手を乾かす温風乾燥機は、要らない。せめてお湯があれば。
「貧しい人々は、幸いである」(ルカ6:20)という言葉の意味を探る旅であった。イエスは「貧しい人々も、幸いな場合があるだろう」とか「ある貧しい人は幸いである」と言ったのではなく、「貧しい人々は、幸いである」と言い切っているのだ。蛇口をひねればお湯が、スイッチを入れれば温風が出てくることに越したことはないはずなのに、これはいったいどういうことなのか? 裏返せば、「富んでいるあなたがたは、不幸である」(ルカ6:24)ということである。どういうことなのか? 一つの答えは、「物質的な豊かさは精神的な貧しさを呼び込む」ということではないだろうか。「彼らは長い衣をまとって歩き回ることを好む」(マルコ12:38)ようになるのだ。「まとって」いる人々は、自覚がないだろう。私たちの心の奥底に巣食う様々な「長い衣」を、心して点検しなければならない。
夜中にトイレに行けば、空は満天の星で埋め尽くされている。難点は、寒くてゆっくり見てられないことである。
五十嵐 彰 (2015年02月08日 週報より)