それなのに・・・(ルカ15:29)
私が赴任した教会で未受洗者の陪餐を容認する聖餐式を提案したときのことです。信仰歴が60年を超え誰からも信頼されていたある信徒が「先生、私は洗礼を受けてから、一生懸命に聖餐式を守ってきました。それは無駄だったのでしょうか?」と涙ながらに訴えてきました。なぜでしょうか? 彼女は聖餐によって自らの救いを確認し、それを守ることが信仰生活であると信じてきたのです。それが洗礼も受けてない人が聖餐に与(あずか)っては、救いの確認の場でなくなってしまったと思ったからです。私はその方に「万が一受けてはならない人が聖餐を受けたとしても、それはその人と神との問題。あなたと神の関係は変わるものではないですよ」と答えました。
瀬戸 英治 2008 「開かれた礼拝・聖餐を目指して」『聖餐 イエスのいのちを生きる57人の発言』:92
前回ご紹介したあるキリスト者下士官が兵役を拒否したキリスト者初年兵に殴り掛かったという逸話にも通じる話しです。
わたしたちの問うべきことは単純だ。帰ることを可能とするために何ができるかということである。神ご自身がわたしたちを見つけるために駆け寄り、家に連れ戻してくださるが、わたしたちのすべきことは、失われていることを認めるだけでなく、見つけ出され、連れ戻されるために備えることだ。では、どのように? ただ待っているだけ、受け身でいるだけでないことは明らかだ。凍りついた怒りから自分を解放することは自分にはできないが、信頼し、感謝するという具体的な日々の実践によって神に見出され、その愛によって癒していただくことはできる。信頼し、感謝することは、兄息子が回心するための修練だ。
ヘンリ・ナウエン 2003 『放蕩息子の帰郷 父の家に立ち返る物語』:117
言いつけは全て守り、真面目で、良く出来て、親の期待を裏切るようなことは決してせず、成績も良く規則を破るようなことは勿論、無遅刻・無欠席、誰からも信頼される模範的生活。しかしこの優等生の心の中は、人知れぬ苦悩に満ちたものでした。なぜなら自分に比べてやりたい放題の我儘で、不道徳で、とんでもない人間が、自分と同じぐらい、いやそれ以上に褒められている、そんなことがあっていいのか、いいはずがない! 自分でも抑えられない怒り、非難、裁き、その裏にあるドロドロした恨み、嫉妬。
8時間真面目に働いた自分と5時間しか働かなかったあんな奴が同じ給料なんて、許せない! 日常の「正しさ」の中に、自分でも驚くような「感情」が潜んでいます。
「聖餐式は有資格者(受洗者)だけが与る」と言います。これは「神の恵みは受洗者だけが与る事が出来る」ということです。これは差別です。いや、信じれば誰でも有資格者になれるのだから差別ではないと言いますが、ここまで来たらあなたにも同じ恵みを与えようと言うのは「同化」の思想であり、それは差別なのです。お前も日本人になれば同じ特権を与えようと言うのと同じですから。聖餐式が神の恵みの無限さを証ししているのならば、その資格を我々が測る事は、それこそ「聖霊を汚す」行為ではないでしょうか。・・・聖餐式は「分離のしるし」ではなく、すべての条件を超えた「一致のしるし」なのです。
宗像 基 2008 「ケチな兄さんになるな!」『開かれた礼拝・聖餐を目指して』:146
異なるものを排除して得られる一致とは、何なのでしょうか? 難しいのは、「家にとどまっている者の回心」です。自らの心の内を見つめる終わらない旅が続きます。
五十嵐 彰 (2013年2月10日 週報より)