国が変われば教会も違う – イタリアと日本 –
イタリアから帰ってきて、もう1週間が過ぎました。私はたまりにたまっていた仕事を消化するのに時差ぼけを感じる暇もありません。妻も似たような状況ですが、先週、彼女はまだイタリアにいるような気がすると何度言った事でしょう。ほんの短い滞在でしたが見知らぬ様々な人々、イタリア人ばかりでなくアメリカ、ベルギー、フィリピン、ブラジルの人々と、教会、レストラン、電車、バスの中で言葉を交わしました。中世の絵のような町のなかで、教会、美術館、庭園。魅入られるようなひとときでした。
でも考えさせられることもあります。教会です。牧師の私が言うのもどうかと思っていますが。不思議にイタリアでは、日本人の目から見れば、教会は、とても盛んです。巨大な大聖堂も、人で埋まっています。ウイークデーでも毎日礼拝が見られます。それはとても良い事です。人々も大変敬虔です。2000年の伝統に支えられた、教会という聖なる空間に身をおいているだけで、心が高められるような気がします。そうした教会がいくつもあります。でも中にはあまりに豪華で、派手で、飾り過ぎた饒舌な教会もたくさんあります。イタリアはカトリックの国ですが、日本人カトリック信者にとってもかなり違和感を感じる部分はあるのではないでしょうか。例えばイタリアの教会では、教会堂の両サイドは、しばしば教会に貢献した人々の柩が埋め込まれています。人々はその上を歩いて教会堂を移動します。また白骨になった聖人に法服を着せてガラスケースに入っていたりするのも時折見ます。「死を覚えよ。」という事でしょうが、日本人の感覚からは少し異様です。
そうした点はある種文化的な相違ですが、日本のカトリック教会と大いに違う点は、なんと言ってもイタリアはカトリック国で、教会は、人々の生活をかなり隅からすみまでかかわりを持っというか、なお支配しているという印象があるのです。第二バティカン公会議以降の礼拝改革は驚くほどです。女性が先唱者として礼拝を指導したり、ミサの聖体(パン)を司祭とともに参加者に渡す役も場合によっては女性です。日本のプロテスタント教会で、まだ女性には礼拝の司会はさせないという教会も少なくありません。ずいぶん開かれた印象があります。
でも日常生活において教会なしで、人々の通過儀礼は果たせないようです。子供が誕生してからの洗礼に始まり、教会による祝福、堅身式、初聖体、聖人の記念日、何だかんだという式の度ごとに、とんでもない高額な費用(献金)をする事になっているというのです。イタリア人の家庭では、一人っ子が多いのです。冗談でしょうが、子供が多いとそうした儀礼に大変なお金がかかってしまうので、一人しか子供を持たない、ともききました。真の理由は、相続において、もめないためのようです。
またカトリック司祭の社会的地位は高く、町や村の名士として、店やレストランでは、カトリック聖職者の意向に逆らわないように気をつけているというのです。場合によっては店が干されて、営業が出来なくなるというのです。また数はもちろん少ないのですが、非行をおこなう神父もいまだにいるようです。明らかになっても、微罪であれば警察は目をつぶるのだそうです。こうなると何か小説の世界ですが、実話です。
要はそれほどの力を、教会が、今でさえも持っているという事実です。社会において教会は大きいほうが良いという人もあるでしょう。でも国民の大半がキリスト者となり、教会が、社会でおおきな力を持つことが、即社会の浄化につながるかといえば、必ずしもそうではないというのが人間の不思議さです。アメリカの教会は、かつての人種差別については、マーティン・ルーサ-・キング牧師を嘆かせるほど非協力的でしたし、現在の銃規制についても、社会を主導できる力を持っておりながら、さして積極的とは思えません。むしろブッシュの戦争政策に積極的後ろ楯となっています。教会があまりに巨大な権威と金銭を持つと、教会は教会らしさを失う、という事でしょう。
日本の教会はあまりに小さい。これで良いとは決して思いませんが、おかげで、日本の牧師は、一般的には、ひょこひょこと走り回り、清貧に生き、権威とは無縁でおられます。それは教会らしさを保つ事に役立っているはずです。韓国の教会も巨大な教会がありますが、牧師の権威主義化に手を貸しているように感じられることもあります。それはイタリアの教会にもつながることです。
とはいえ、わたしはイタリアの教会に身をおいて、オルガンを聞き、礼拝に与ることは、大きな喜びなのです。由木教会はこうして清く、貧しく、美しく、一歩一歩を大切に生きていけば良いのだろうと思います。ただ、もうすこし仲間が増えても、間違いを起こす事にはならないでしょう。なお、なお、一人の存在を大切にし、差別や他者への愛に関心に心を向けつつ、教会が、どんなに少数でも、ほんのわずかでも足元の社会の浄化力につながる事になりたいと願うのです。世の光、地の塩でありたいと思います。権力的、権威主義的である事は過ちである事を覚えたいと思いました。
(2005年10月02日 週報より)