神の愛に包まれて

わたしたち夫婦は先週、教会にお許しをいただいて、娘が滞在しているいるイタリアを訪ねました。イタリアと日本では当然違う事が多いのですが、小さな事ですが、小鳥も、とくに雀の、人への親しさが全く違う事におどろきました。日本では、「舌切り雀」と言うような民話があるくらいですから、日本の雀は人間に対して、非常に警戒的です。ところがヨーロッパやアメリカでは雀はとても人間に親しいと聞きました。今回、ストレーザと言う北イタリアの湖畔の町に出かけ、小さな食堂で食事をしていた時のことです。急にアメリカ人のお客がおしかけ、店が込み合って、私の注文した料理がいつまでたっても来ないのです。どうやらコックさんが不馴れで、たくさんの人々の注文に追いつけないようなのです。でもこちらはいつもと違って、不思議にイライラした気持ちにならなかったのです。私たち家族は、屋外の席で、柳の木の脇に座っていました。良く見ると、その1本の木に雀が六ー七羽、あるいはそれ以上いたでしょうか。その雀たちが、少しずつ距離を詰め、私たちに近づいてくるのです。ついには、少し手を伸ばせば触れるほどのところに近づいてきます。どうやら食事のおこぼれを期待しているようでした。聖フランシスがいくら偉大であっても、小鳥が逃げてしまえば説教は不可能です。

それなりの理由があるかも知れません。でもやはり日本は小鳥にたいしてあまりやさしくはなかったかも知れません。小鳥に恐れられるくらいならまだしも、生身の人間からさえ恐れられてきました。変わりつつあるとは思いますが、かつて、日本人はアジアの人々から、恐れられていました。戦後、最近まで日本の経済発展は、経済侵略と取られてきました。アジアで活躍するビジネスマンたちすら背広を着た帝国軍人などと評されたこともあります。しかしそうしたイメージは、徐々な様々な努力の中で克服されつつあるとは思います。

聖書の民/かつてのイスラエル人たちの偉大さは、バビロン捕囚の中で生み出されました。国家がこっぱ微塵に崩壊する中で、強制連行、奴隷化と言うこれ以下の状態はないと言う最底辺におとしめられたのです。その場において、人々は天を恨み、その運命を嘆き悲しみ、自暴自棄になっても不思議はない中で、人々が生み出したのは聖書でした。
『地は混沌であって、闇が深淵の面にあり』(創世記1:1)
これはまことにイスラエルの人々の見える世界であったに違いありません。しかし人々はそこから神の創造を信じ、繰り返し、繰り返し『神はそれを見て良しとされた。』と書いたのです。それ以下はないと言う困難の渦中で、神の支配のもとにあり、神の創造は、彼らの生きる世界にも及びことを高らかに歌ったのです。

かつて三浦綾子さんがある神学者の『神はガンをもつくった。』という言葉を励ましにしていました。ガンが神が創造したものなら、そこから学べる何かがあると言うのです。それはガンでもない人間が言う言葉ではありませんが、この病気に身体を侵されてなお、神に従って生きようとする人のあり方に励まされます。人が自分自身の生き方を正すことは途方もない困難があります。しかし見事そうして難局を越えていった古代イスラエルの人々のあり方は、はかり知れない希望を与えます。

日本の雀は変わるでしょうか。世界の人が日本人が軍国主義から無縁であることを認めてくれるのはいつのことでしょうか。

(2005年09月25日 週報より)

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