家庭でこどもがいつくしまれるということ

次の言葉はかのアルベルト・シュヴァイツエルの言葉です。社会や個人がなんらかの危機をむかえるときわたしはこの言葉を思い起こします。穏やかな信仰と安らかな家庭生活が与える平安は子どもたちに他者への深い同情を与えます。

「休暇になると、両親はわたしたちに家がいっぱいになるまで学友を招くことを許してくれました。わたくしたちはそれをかれらの特別な好意であると思いました。わたくしたちがそのため母をわずらわした仕事を、母はどうしてやりとおすことができたかを思いますと、今日なおわたくしにはなぞであります。

このようにわたくしはひじょうに幸福な少年時代を過ごしましたが、この思いはいつもわたくしを去りませんでした。この思いは私を全く圧倒しました。わたくしはこの幸福をあたりまえのこととしてうけとる権利をもっているのだろうかという疑問が、だんだんとはっきりわたくしのまえにひろがっていきました。

こうして幸福をうけとる権利の問題はわたくしには第二の経験でありました。それはわたくしが幼い頃からすでにもっていたもうひとつの大きな経験、すなわち世のいたるところにわたくしたちをとりまいている不幸に心動かされたことと同じように重大でありました。この二つの経験はいりまじって少しずつ押しよせてきました。これによってわたくしの人生に対する見解とわたくしの生涯の運命が決定しました。

わたくしはわたくしの幸福な少年時代、わたくしの健康、そしてわたくしの活動力を、自明のこととしてうけとる内的な権利はないということが、ますますはっきりしました。このもっとも深い幸福感から、わたくしたちはわたくしたちの生命を、わたくしたちのためにもつことは許されないというイエスの言葉がわたくしにはすこしづつわかってきました。人生において多くの恩恵をうけたものは、そのかわりにそれに応じて多く与えなければならないのです。自分の苦悩をまぬかれたものは、他人の苦悩を軽くし助けるために力をかさなければなりません。わたくしたちはすべてこの世にのしかかっている不幸な重荷をともに担わなければならないのであります。・・・(やがて)21歳のとき、ペンテコステの休暇にわたくしは21歳の学生でしたが、30歳までは説教者の職務と学問と音楽に生きる決心をしたのです。

「わが幼少年時代」(アルベルト・シュヴァイツェル著 波木居斉二訳 66p 1965年刊)

アルベルト・シュヴァイツエルはその後、高名なオルガニスト・神学者でありつつ医師免許を取得しアフリカにわたり医療と人道活動に身をささげたのでした。そのすべての力の源泉は、その家庭で両親に深くいつくしまれるという経験でした。

(2012年02月05日 週報より)

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