対話(ダイアローグ)

私たちの生活は、周りの人たちとの対話(会話)によって成り立っています。「今日の晩御飯は、どうする?」「そうね…」といった他愛のないものから、「信仰とは何か」といった奥深いものまで様々です。それぞれの問いかけには、それぞれの思惑があり、ある種の期待があります。期待通りの応答がなされれば、嬉しいし、話も弾みます。私などは話し下手で、口数も少ないほうなので、喫茶店で隣の中高年の人たちが2時間も3時間も喋りまくりといった光景を目にすると、驚異的としか思えません。しかし自らの思惑と異なる応答が示されれば、やや落胆しつつも改めて異なる方面から問い掛けがなされたり、「じゃ、また今度」ということもあるでしょう。晩御飯の話題といった事柄はともかく、ある程度の考えられた話の筋立てが求められている受け答えについて、こちらが予想した応答がなされない場合には、いくつかの原因が考えられます。相手にこちらの問いかけに応答するだけの用意がなされていない場合です。晩御飯の献立しか考えていない人に、信仰とは何かを聞いても、こちらが満足するような答えは示されないでしょう。あるいは深く考えていたとしても、義務的に当たり障りのない考えを答えるだけであったり、そうした答えを示す余裕がない場合もあるでしょう。こうした事は音声による会話だけでなく、文字によるやり取り、例えばラインとかメールやブログあるいは論文や書籍といった、やや大掛かりな情報発信についても、あるいはこの週報の裏面の文章といった些細な事柄についても言えるでしょう。何かの反応があれば、あったことを知れば、それだけで対話は成り立った、意志の疎通は叶ったとも言えます。直接的に感想を聞くことはなくても、自分の書いた文章が拡大コピーされてある人のテーブルの上に置かれていたといったことを知るだけで、「あぁ、私の思いは、あの人に伝わったのだな」と感じとることができます。普段から考えていなければ、考えることで自分の考えをまとめていなければ、問いかけに応答することはできません。何の関心もなければ、考えることもしないでしょう。自分の抱えている問題、直面している困難を解決するには、どうしたらいいか、あるいは何故こんな理不尽なことが社会で、世界で起こっているのか、つたない頭で一生懸命考えているからこそ、問われた時に、その人なりの経験に基づいた応答ができるし、あるいは自分の未解決の問題や疑問を相手に問い掛けることができるのです。考えるとは、自分との対話とも言えます。あるいは神との対話でもあります。それは、祈りとも言い換えることができるでしょう。

イエスは通りがかりの女性に「水を飲ませてください」と頼みました(ヨハネ4:7)。普通ならば「はい、どうぞ」で終わりです。しかしそうはなりませんでした。「どうして、あなたが?」という応答から、最終的には両者の対話は「信仰とは何か」という話題にまで至ります。客観的に見れば、この対話は全然かみ合っていません。女性は井戸から汲む水のことについて話しているのに、イエスはこころに湧き出る水としての信仰について語っていきます。それはある意味で強引とも思える展開です。しかしそこには、相手に対する深い思い、虐げられている人の痛みをくみ取り、何とか癒したいという願いが大きく強く作用しています。「聞く力」などということが言われます。「対話術」といったことも言われます。しかし思いが通じる対話は、そうした表面的なテクニカルな事柄ではなく、相手を深く思うこころの問題であることを思わされます。

五十嵐 彰(2022年11月13日 週報の裏面より)

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