知識人批判

「わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行なうことはできないからです。」

ヨハネによる福音書3章2節

教科書的で非の打ちどころのない合格間違いなしのスピーチである。私たちが、このように言われたら、いったいどのように答えるだろうか。「よくお分かりだ、これからも精進されよ」と励ますか、それとも「まぁ、あなたのおっしゃることも当たらずといえども遠からずですね」あるいは「いやいや、それほどでも・・・」と苦笑しつつ誤魔化すか。

なにせこのニコデモという名前の教師が述べたセリフは、少し後で出てくる洗礼者ヨハネの次のような言葉と語句的には、大きな違いが認められないのだ。「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。」(27節)

しかしニコデモの投げかけた言葉に対するイエスの返事は、驚くべきものである。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」(3節)

このような返事を聞かされたニコデモの驚愕の表情が、目に浮かぶようである。「よく出来ました」とお褒めの言葉を頂けるものとばかりに思い込んで発した練りに練ったセリフに対する答えが「もう一度生まれ直しなさい」という想像もできない冷たい言葉である。なぜ? どうやって? 根が真面目だけに、繰り返し問い続ける。問わざるを得ない。

物質的なものではなく精神的なものを、肉体的な問題ではなく心の問題に目を向けるように諭すイエスの対話は、ニコデモのすぐ後に登場する「サマリアの女」の場合も同様である。しかしニコデモとサマリアの女とでは、接するイエスの態度、温かみが全く違う。なぜだろう? ユダヤ人男性という優位にある民族の優位なジェンダーに対して、サマリア人女性という幾重にも抑圧されたマイノリティという社会的存在に応じた 心の在り様の故だろうか。それもあるだろう。何よりもニコデモは、自分が正しいということを少しも疑っていない、その心の在り様を問題とされたのではないだろうか。イエスは、教科書通りの答えをただ頭の中で反芻し、それをわざわざ話しに来て、自分の問題として省みることのない知識階級に属する一人の人間の弱さを鋭く見抜かれていた。

しばしのやりとりの後に「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。」(10節) とやや苛立ちながら叱責すると以後21節に至るまで、殆どイエスの独白となる。そして最後は「悪を行なう者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ない」(20節) という教えが述べられる。これは、どうしても当初のニコデモの行動を想起せざるを得ない。なぜならニコデモがイエスを訪ねて来たのは、明るい昼ではなく、まさに人目を忍んで暗い夜を選んでいたからである。言葉と行い、頭と身体が、それぞれ相伴う信仰こそが、良しとされる。与えられた永遠の課題である。

五十嵐 彰 (2011年11月13日 週報より)

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