愛がなければ
そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、私は騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々に使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、私に何の益もない。愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。・・・・それゆえ、信仰と希望と愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。
コリントの信徒への手紙1 13章
有名なコリントの信徒への手紙1の13章です。なんと美しい言葉なのでしょう。この文章を書いたのは使徒パウロです。こう書く以上、著者パウロは<愛の人>であったに違いありません。しかしパウロは初めから愛の人などではありませんでした。パウロは元来、排他的ユダヤ原理主義者でした。そのうえユダヤ人がユダヤ教を捨てキリスト者となることは、許すことができない裏切り行為として、キリスト者とみれば捕縛し、逮捕し、殺戮さえためらわないテロリストでした。愛とは正反対の、憎悪に固まった人物だったのです。パウロの手でどれほどのキリスト者が犠牲になったことでしょう。パウロは高い知性の持ち主でしたが、排他的原理主義に立つと、人は心の目が見えなくなるのです。ちょうど日本では医師や研究者がオーム真理教に入信し、自分を見失って、猛毒サリンを製作したり、地下鉄に仕掛けて多くの人が犠牲になったりしたのです。
しかしパウロは脅迫と殺害の息はずませて(口語訳使徒9:1)、シリヤのダマスカスに向かっていた時に、復活のキリストに出会ったと自ら語ります。パウロ自身の死をもってすらとうてい償えないほどの大きな罪に対して、キリストは、パウロに完全な赦しを与えたのです。そして生まれたばかりの教会のために宣教者として労することを命じたのです。そうして生かされることは自らしでかした現実が見えたときにむしろ、一挙にキリストに裁かれ、死なせてもらった方が、パウロにとっては楽だったかもしれない。しかしパウロの人生は180度逆転することになったのです。ユダヤ教原理主義から、キリスト教宣教者としての道です。教会の実質的指導はペトロからパウロに手渡され、パウロは3度の世界宣教に乗り出してゆきます。
人は許され、愛され、受け入れられると、何歳であろうと根源的に変えられうるということでしょう。神の愛は偏狭な原理主義テロリストを、コリント前書13章<愛の章>の著者に変えられるのです。
(2014年04月27日 週報より)